新史太閤記

司馬遼太郎 著
新潮文庫

 日本一の出世人、豊臣秀吉を描いた小説は数多くありますが、司馬遼太郎氏が執筆した「太閤記」には、頭に「新史」と銘打ってあります。
 物語は、少年時代の秀吉が尾張の田舎で高野聖を相手に商才を発揮するところから始まり、墨俣築城や美濃攻略などを経て織田家の重鎮となり、本能寺の変、小牧・長久手合戦の後、徳川家康を上洛させて臣従させ、九州征伐に赴く場面までを描いております。

・秀吉戦略の源
墨俣築城、美濃攻略、鳥取城攻略、備中高松城攻略など、秀吉が行ってきた有名な事業(戦い)は、いずれも常人が秀吉の優れた発想力の例として取り上げられます。筆者はこれらの例の根源的なものとして、秀吉の出自を根元に考えております。
秀吉の出自はご存知の通り、尾張の農民階級です。しかし、農民といっても隣国・三河の農民とはまったく異なり、たぶんに「商人的」である、と記述されています。秀吉の戦略の源は、その「商人的」なものの考え方にある、という視点で物語がつづられています。
「秀吉の戦は、土木工事」
という表現が特徴的でした。

・脅威の人心掌握術
武家の子ではない秀吉は、譜代の家臣を持っていませんでした。そのため、かつては同僚であった織田家の家臣はじめ外様大名らを自分の家来として扱わねばなりません。そのために調略で懐柔する相手には破格の接遇と待遇、持ち前の愛嬌を最大限に活かして、相手の心を掴み取っていったわけです。逆にいえば、それらの懐柔策で諸大名をなびかせておかねば、維持できないのが秀吉政権の特徴である、というわけです。事実、秀吉の死後、天下は徳川家康に乗っ取られてしまっています。
「新史太閤記」では、秀吉の特徴的な家臣団構成や、その成立過程について、歴史的な背景もふまえて解説されていました。

・描かれなかった秀吉の晩年
天下統一を果たした後の秀吉は、朝鮮出兵をはじめ、その政策や栄光には陰りが見え始めます。「新史太閤記」では、家康懐柔の後のエピソードについては描かれておりません。晩年の秀吉には筆者にとって描くほどの題材が存在しなかったのかもしれません。最後は秀吉の辞世の歌で締めくくられますが、農民から身を起こして天下統一という大業を成し遂げた人物にしては、どこか物悲しげな結末のように感じました。


昭和43年3月 新潮社より刊行


侍庵トップページへ戻る