酔って候

司馬遼太郎 著
文春文庫

1.酔って候

本の題目ににもなっているこの章の主人公は土佐藩主・山内容堂。彼はたいへんな酒豪で、自らを鯨海酔侯と称しておりました。彼は江戸時代の殿様とはまったく異質の人物で、戦国時代の大名のような気風を持っております。そして、歴史をはじめとして教養が深く、剣術・馬術・居合にも通じた才人でありました。
土佐藩には、戦国時代に長宗我部氏に仕えていた土佐人の武士(郷士という)と、関が原の戦いの後に土佐の大名となった山内一豊が連れてきた土佐人ではない武士(上士という)の、二つの厳しい階級がありました。この関連で特に印象に残ったのが『ときに歴史を審判者として現実が裁かれることがある。』という文章。身近な例では、親が子を叱る時に「昔からあんたは・・・・・」と、過去の子の性質を持ち出して現実を裁断し、もっと大きな規模では国家・民族の対立の歴史が、現在でも紛争やテロ、差別などの形で残っています。だからといって、歴史が悪いと言っているわけではありませぬ。歴史とはこれほど影響力の強いものであり、現在を操作しうるエネルギーになる、ということです。最後まで山内容堂が大政奉還という形をとって慶喜擁護に回った一方で、藩士達は薩長と共に討幕を進めていったという事実は、彼が山内家の歴史を知り、その歴史事実から現在を認識しているから、ということ。つまり、歴史が彼の行動と意志を操作していたとも見ることができるわけです。改めて、歴史の重さを感じた章でありました。

2.きつね馬

この章の主人公は薩摩藩の島津久光。西郷や大久保ら、薩摩藩の維新志士らと対比されながら薩摩の殿様が描かれております。筆者はこの本のあとがきで『かれらは藩主なるがゆえに歴史の風当たりをもっともはげしく受け、それを受けることによって痛烈な喜劇を演じさせられた』と締めくくっていますが、中でも『喜劇を演じさせられた』のが、この島津久光のように思えました。特に大久保などは、久光にうまい具合に取り入り、薩摩藩主(厳密には藩主の父)と地位を存分に発揮させ、その結果久光はその地位を失うのですから、いいように利用されたという見方もできるでしょう。
ちょっと残念な点は、生麦事件については描写が細かいのに、それが引き金となって起こった薩英戦争についてはほとんど描かれていないこと。幕末の薩摩藩の中ではもちろん、幕末史全体で見ても、薩英戦争は大きな出来事だったと思うのですが、意外にも描写は略されておりました。あえて、略したのでしょうかね?

3.伊達の黒船

幕末の四賢侯の一人に挙げられる伊予宇和島藩主の伊達宗城は新しい物好きの殿様でした。1853年に来航したペリーの黒船を見て、あれを自藩で作ろうと思いついたのが、この物語の始まりです。しかし、黒船は日本にはなかった蒸気船。蒸気機関で動く船なので、作ろうと思って作れるほど簡単な物ではありません。さて、物語を担うもう一人の重要人物が、宇和島の貧乏町人・嘉蔵。商売下手で嫁にも逃げられた冴えない男でしたが、彼の唯一の特技は細工物。誰に教えられることもないのに、見たものを鮮やかに作り出すことができる能力を持っていました。この嘉蔵が、藩のお抱え大工になって黒船建造に挑むわけです。
この編では、江戸時代の身分制社会が町人である嘉蔵の視点から厳しく描かれております。無能であるが、上士というだけで威張り散らす侍を見ると、武士も落ちたものだと思わざるを得ないでしょう。ただ、このような良い意味でも悪い意味でも「安定」している社会で、田舎の小藩がまがりなりにも蒸気船を作り上げたという結果は、ペリー来航の衝撃の大きさを表していると同時に、伊達宗城の明君振りを表していると思いました。

4.肥前の妖怪

最後の編の主人公は、肥前佐賀藩主の鍋島閑叟。薩摩藩、長州藩とは異なり、幕末の動乱には最後まで表立った行動を見せませんでしたが、他藩に先駆けて反射炉を築きあげ、軍の近代化を成し遂げていた有能な人物です。ここに描かれている鍋島閑叟は、武士にしては珍しい物質主義的な思想を持っておりました。長崎を使った密貿易で莫大な利益をあげてまずは「富国」をなし、培った財力で「強兵」を行ったその方針は、明治政府の縮図のようでありました。
ここに描かれている鍋島閑叟のやり方は、人によって好き嫌いがはっきり分かれると思います。ちなみに、拙者は好きな方です(何もかも好きというわけではありませんが)。彼のやり方には「古式に倣う」「慣例によって」という意識が薄く、常に目で見て手で触れて、現実的な視点で現在と未来を見据えているからです。もちろん、武士道や過去の歴史を軽んじているのではありませんが、現代に生まれた拙者には、彼の考え方に共感できる点が多かったです。

発表掲載誌
「酔って候」:「別冊文藝春秋」昭和39年12月90号
「きつね馬」:「文藝春秋」昭和40年2月号
「伊達の黒船」:「日本」昭和39年11月号
「肥前の妖怪」:「別冊文藝春秋」昭和39年6月88号


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