「三国志」に登場する武将の一人。
「趙」が姓で「雲」が名。「子龍」は「字(あざな)」といい、後で自分でつけた名前。管理人が初めて読んだ歴史漫画「三国志(横山光輝)」で強烈な印象を受けもうした。彼は日本人ではありませぬが、その武勲と精神には学ぶべきことが多いと思いまする。
例を挙げていくときりがないゆえ、ここでは特に印象の強いものを紹介いたしまする。
戦場にて部隊を率い、敵将を斬る「武将」にとって、個人の武力はその武将の価値を決める大きな要素であった。これは、特に古代の戦ほどその傾向が強かったようだ。趙雲の場合、その武勲はまぶしいほどに輝かしい。
趙雲の数ある武勲の中で、もっとも有名なのは、「敵の大軍の中を、幼子を抱いてただ一騎で駆け抜けた」といわれる長坂の戦いであると思われる。この戦いは、彼の並はずれた武力と精神力を表現している。
当時、趙雲の主君である劉備はまだ弱小勢力であり、北方から大軍で押し寄せてきたライバル・曹操とまともに戦うことはできなかった。劉備は自分を慕う民百姓を率いて、曹操軍から逃れるために南方へ退却することにした。しかし、大勢の民百姓を従えた行列の速度は遅く、ついには曹操軍に追いつかれてしまう。襲われた劉備軍は支離滅裂状態となった。劉備はかろうじて難をのがれるが、この時まだ趙雲は敵の大軍の中に残っていたのである。彼は、劉備の夫人とまだ幼い嫡男「阿斗」の警護役をしていたのだが、乱戦で敵と戦っている間に見失ってしまったのである。責任を感じた彼は、自らの危険を省みずに血眼になって夫人と「阿斗」を探した。なんとか夫人と阿斗を発見した彼は、二人を連れて逃げようとするが、夫人は足に重傷を負い走れる状態ではなかった。趙雲は自分が乗ってきた馬を夫人に譲ろうとするが、夫人は「私が馬に乗れば、お前はこの子を抱いて敵陣の中を歩いていくことになります。そんなことでこの子を守れると思っているのですか?」と言って聞かない。そして、足手まといになると考えた夫人は、趙雲が目を離したすきに古井戸に身を投げてしまったのである。趙雲は悲しみにくれるが、周囲の状況はそれを許すものではなかった。趙雲は劉備の嫡男「阿斗」を抱いてただ一騎で敵陣を突破し、見事に阿斗を連れて帰ったのである。この間、彼は100人もの敵将を斬り、味方の陣に帰ったときは返り血で全身赤く染まっていたというほどであった。100人という数字はいささか誇張されすぎかとも思うが、それでも無事に阿斗を守り抜いた武勲と状況判断力は余人に真似できないものであろう。
趙雲の武者ぶりは、その武力ももちろんだが、滅私奉公の精神も忘れてはならない。私腹を肥やす事に一生懸命な政治家とは全く次元が異なるのである。
「兄嫁を酒席に侍らすことすら言語道断なのに、その兄嫁を他人に薦めるとは犬畜生にも劣る!」
と怒り出し、趙範を殴り飛ばして陣に帰ってしまったのである。自分の好意を踏みにじられたと考えた趙範は、部下が進めるままに趙雲の謀殺計画を実行した。二人の部下を偽って趙雲に降伏させ、油断しているところを討ち取ろうというものである。しかし趙雲はこの計略を逆手に取り、桂陽城を占拠、太守の趙範を生け捕ったのである。その後、劉備は桂陽城に入城し、趙範から事の顛末を聞いた。劉備は趙雲に
「美人といえば愛さぬ者はおらぬのに、何故怒ったのだ?」
と聞くと趙雲は
「拙者も美人は嫌いではありませぬ。しかし、武力で屈した桂陽城。その太守の兄嫁を妻としたら、世間は力ずくで兄嫁まで奪ったとみるでしょう。それに我が君の徳もこの地ではまだ知られておりませぬ。新領地下の民心は不安定なもの。家来の拙者が驕り高ぶっていては、ここの民心を得る事はできず、我が君の大業も半ばで倒れるかもしれませぬ。以上を考えた次第でござる。」
と答えた。劉備は
「しかし、桂陽も今は支配下にあるのだから、余が仲人となってその美人を娶らせようか?」
「天下の美人は一人ではありませぬ。それに、妻なくとも武人としてのつとめは果たせます。それよりも、拙者は武人として名分が立たなくなることを恐れます。」
という内容のことを答え、断ったのであった。まさに武士の鑑である。
「子龍(趙雲)は全身が肝っ玉よのう。」
これは漢中争奪戦の際、劉備が趙雲の武勇を称えて言った言葉らしい。趙雲の豪勇を伝える話である。<漢水の戦い>
上述の漢中争奪戦は蜀軍の勝利に終わり、魏軍は漢中から全面撤退することを余儀なくされた。そして劉備は「漢中王」を名乗り、ついに蜀は名実共に一国を形成したのである。これを機に「五虎大将軍」と呼ばれる、5人の名将軍が選ばれた。もちろん、趙雲もその一人であった。そして、彼が最後まで生き残った五虎大将軍であった。劉備の死後、南蛮や北伐など、趙雲は武の中核として若手の武将をひっぱり、蜀軍を支え続けたのである。しかし、229年ついに没。その死には諸葛亮孔明をはじめ、多くの諸将が涙を流したという。