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千早城

築城年 1332年
分類 山城
別名
築城者 楠木正成
歴代城主 楠木家
史跡指定

・国指定史跡

現在地

大阪府南河内郡千早赤阪村千早
(旧国名:河内)
<左写真:二の丸跡記念碑>

略歴

・元弘2年(1332年)  楠木正成が金剛山一帯の拠点として築城
・元弘3年(1333年)  鎌倉幕府の大軍を相手に籠城戦が繰り広げられる

<千早城の沿革>
 千早(ちはや)は鎌倉時代末期、かの有名な楠木正成が金剛山の尾根を利用して築いた城です。楠木家は河内の土豪出身と考えられており、この付近一帯を勢力圏としていたようです。この辺りは千早城以外にも、多くの支城が築かれ、広大な支城群が形成されていました。例えば下赤坂城、上赤坂城などもこれらの支城群に含まれます。これらを一つの「城」として見ると、下赤坂城は出丸、上赤坂城は本丸、千早城は詰の丸、に相当するそうです。

 千早城が一躍全国クラスの知名度を持つことになった事件が、元弘3年(正慶2年)(1333年)の千早城籠城戦でしょう。千早城で挙兵した正成に対し、鎌倉幕府は10万を超えるほどの大軍を送り込みます。しかし、正成率いる楠木勢は大軍を相手に善戦したため、攻城戦は長期化。幕府軍が千早城に釘付けにされている間に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利高氏新田義貞といった武将達が幕府から離反。新田軍によって、鎌倉は陥落するのでありました。戦後、後醍醐天皇は正成の功を大きく評価し、楠木家は無名の土豪から、全国にその名を知られる武家となったわけです。

<その後の千早城>
 建武の新政以後も千早城は楠木家の城となっていましたが、南北朝争乱の時代に畠山家の攻撃によって落城。その後は廃城処分となりました。現在では、二の丸跡は「千早神社」となっており、正成をはじめとした楠木一族を祭神として祀っています。

<おすすめ見所>
ニの丸跡に向う階段
 現在残っている古絵図によると、千早城は尾根を利用し、頂上に本丸。その下に二の丸、さらに下に三の丸、四の丸と、階段のように曲輪が連なっていたそうです。写真に映っている階段の両側は傾斜の厳しい崖になっており、攻撃側はたいへんな苦労を余儀なくされることが想像できました。

おまけ
 三の丸跡(?)で発見。雪景色も合わさって、ちょっと物悲しさを感じましたね。



探検日:2008年1月1日
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