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大納言塚(豊臣秀長墓所)

時代区分織豊・戦国時代分類区分その他旧国名大和
現在地奈良県大和郡山市箕山町

関連人物

・豊臣秀長

関連事件

豊臣秀長(1540〜1591)は天下統一を果たした豊臣秀吉の異父弟で、兄の活躍を影で支え続けてきた戦国武将でありました。天正13年(1585年)、和泉・紀伊・大和におよぶ100万石の所領をもって郡山城主となりました。
郡山城の本格的な建設にとりかかるとともに、「箱本(はこもと)制度」という独特の町方自治を行い、城下の商工業を育成し、今日の郡山の基礎を築いたのです。

大納言塚入口

天正19年(1591年)1月22日。秀長は郡山城にて病没。この地に葬られたそうです。秀吉は菩提寺・大光院を現在の芦ヶ池付近に建立し、院主として京都・大徳寺の古渓和尚を当てて管理させました。豊臣家の滅亡後、藤堂高虎によって、大光院が京都の大徳寺の塔頭(たっちゅう)として移築され、位牌は東光寺(後の春岳院)に託されました。
その後、荒廃した墓地を春学院の僧・栄隆や訓祥が郡山町中から協力を集めて、外回りの土塀を造り、五輪塔を建立したそうです。

以上 大納言塚の説明より 1996年3月 大和郡山市教育委員会

郡山駅で降りて、すぐ側にある案内板を頼りに行きました。が、道は狭くてちょこちょこ曲がっており、視界もよくなかったので、道が合っているかどうか不安でありました。が、なんとか到着。

豊臣秀長は、常に兄・秀吉の影に隠れてあまり目立ちませぬが、かなり有能な人物だったようです。秀吉はもちろん、諸大名からの信望も厚く、秀長がもっと長生きしていたら豊臣政権のその後は大きく変わっていたであろう、と言われております。拙者もそれに同感であります。秀長公にご冥福あらんことを・・・!

ところで、入口には「お願いの砂」というものがあり、そこの説明によると・・
このお砂を「自分の名前」と「願い事」を言いながら、3回または7回、お砂箱にお供えする気持ちをこめて通すと、願い事を聞いてくれる
そうです。

<交通手段>
近鉄「郡山」駅から徒歩7,8分ほど。案内板も少ないので、ちとわかりにくいと思います。

探検日:2003年春
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