築城年 | 不明 | 分類 | 山城 | |
築城者 | 不明、堀尾吉晴修築 | |||
歴代城主 | 尼子家 → 毛利家 → 堀尾家 | |||
史跡指定 | 国指定史跡 | |||
現在地 | ||||
島根県安来市広瀬町富田 |
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略歴 | ||||
・文明18年(1486年) 尼子経久が守護代・塩治氏を滅ぼし、月山富田城を乗っ取る |
<月山富田城の沿革>
月山富田(がっさんとだ)城は、戦国大名・尼子家の居城として有名な城です。その歴史のはじまりは、平安時代とも鎌倉時代初期とも言われていますが、詳細は不明となっているそうです。戦国大名の先駆けとして知られる尼子経久(あまご つねひさ)が、月山富田城を攻略して以来、尼子家の本城としての役割を担ってきました。一時は、大内家の大軍に攻撃され、危機に陥ることもありましたが、その度に堅城ぶりを発揮し、見事に大内軍を撃退。「難攻不落」の山城として畏れられていたそうです。
しかし、永禄8年(1565年)に毛利元就が大軍を率いて攻め込んだ時には、1年半にも及ぶ長期の籠城戦の末に敗北。尼子家は滅亡しました。月山富田城は、吉川元春、その後は吉川広家の管理下に置かれ、山陰地方の要の城としての役割を果たしていたそうです。
慶長5年(1600年)の関が原の戦いで、毛利家が属する西軍は敗北。毛利家に代わって、堀尾吉晴(ほりお よしはる)が出雲の国主となり、月山富田城に入城しました。この時、月山富田城は大規模な修築を受け、総石垣造りの近世城郭となりました。
しかし、それから間もなく、吉晴は松江城を築いて本城を移したため、月山富田城は廃城処分。その歴史を終えました。
<おすすめ見所>
・麓にある月山富田城の模型
月山富田城の登り口の脇に、ポツリとあるのがこちらの月山富田城模型。城の主要部分は標高197mの月山(がっさん)の峰を利用しています。手前の川が富田(とだ)川で、天然の堀となっています。月山の背後は傾斜が厳しい山林になっており、堅城ぶりがうかがえます。
・山中鹿之介像
太鼓壇と呼ばれる曲輪を登って行く途中で、忠義に厚い武士として有名な山中鹿之介(やまなか しかのすけ)の銅像が立っていました。鎧姿で槍を脇に抱え、両手を合わせている、という信念の強さが感じられる像ですね。
・花の壇と侍屋敷(復元)
城の中腹あたりに、花の壇と呼ばれる曲輪があります。当時、花がたくさん植えられていたことから、この名前がついているそうです。発掘調査の結果、この部分には屋敷が建てられていたことがわかり、そこから復元したのがこの「侍屋敷」という建物です。武士たちの詰所として使用された、と伝えられています。
・山中御殿跡
山中御殿(やまなかごてん)と読みます。花の壇からさらに奥に進むと、城主が住んだという「山中御殿」の跡地につきます。現在は、石垣に囲われた広場になっています。
ここからさらに山を登ると、三の丸、二の丸、本丸とつながっていきます。まさに山城です。