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萩城

築城年 1604年 分類 平山城
別名 指月城
築城者 毛利輝元
歴代城主 毛利家
史跡指定 国指定史跡
現在地

山口県萩市堀内
(旧国名:長門)
<左写真:右に指月山、左に天守台、中央は大手門跡>

略歴

・慶長9年(1604年)  毛利輝元により毛利家の居城として築城開始
・慶長13年(1608)  竣工
・文久3年(1863年)  藩庁が山口に移され、重要性が薄れる

<萩城の沿革>
 「萩城」という言葉を聞くと、戦に敗れた者たちの悲哀を連想させるような、そんなことを考えさせられます。戦国時代後期、弱肉強食の世界を勝ち抜いて、西国の覇者となったのは毛利家でした。しかし、運命の分かれ道となった天下分け目の「関が原の戦い」。毛利家当主であった毛利輝元(もうり てるもと)は西軍の総大将という地位に就きますが、西軍は敗北。その結果、領土を周防・長門の2国に削られたうえに、毛利家の本拠地であった安芸からの退去を余儀なくされる、という事態に追い込まれてしまいました。こうして、毛利家が新たに築いた居城が、この萩城であるわけです。築城のきっかけは、戦に敗れたこと、という武士としてたいへん悲しい歴史を帯びています。

 萩城は、日本海に島のように突き出した標高143mの指月山(しづきやま)の麓の三角州に築かれました。麓には本丸・二の丸・三の丸を置き、指月山には詰の丸を置くという、平山城の形態をとっています。太平の世に相応しい政治・経済目的というよりは、いざという時は籠城することも視野に入れているかのような構造になっています。その点、毛利家の徳川幕府に対する考え方(幕府と一戦交える際は、防衛の拠点となることを考慮した)を表現しているようにも見えます。

 江戸時代のおよそ250年間、毛利家は転封することもなく、この萩城を居城としていました。しかし、文久3年(1863年)、幕末の動乱に対応するために、交通の便がいい山口に藩庁を移転しました。その結果、萩城の重要性は次第に薄れてしまいます。結果、明治維新、そして廃藩置県と歴史が流れて行く中で、天守閣をはじめとした建物は軒並み取り壊され、廃城となり、その役割を終えたのであります。 

<おすすめ見所>
「扇の勾配」天守台
 萩城の天守閣は、本丸の南西隅に位置し、内堀に突き出すような形で築かれました。当時は、ここに五層の白亜の天守閣がそびえていたそうです(案内板に天守閣の古写真が載っています)。残念ながら現在は天守閣はありませんが、現存している天守台は「扇の勾配」と呼ばれるほど、均整のとれたデザインになっております。

詰丸入り口
 せっかく萩城に来たのでしたら、公園として整備された城内を見て終わるのではなく、指月山の詰丸にも登ってみましょう!歩いて15分ぐらいで頂上まで着きます。詰丸は、二の丸と本丸から成っており、城壁と6つの櫓で囲われていたそうです。平時は、6,7名の「要害番」と呼ばれる係の人が駐在し、城下はもちろん、海も監視していたそうです。
 山道を登って行くと、写真の「門跡」にたどりつきます。ここをくぐると二の丸です。詰丸も麓と同様に建築物は破却されてしまっていますが、城壁の一部分が現存している模様です。ただしかし、残念なことに、これらの城壁はイタズラ書きがいっぱい(T_T)。文化財にイタズラ書きするのは犯罪ですよ!!



探検日:2007年11月23日
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