築城年 | 1216年頃 | 分類 | 平山城 | |
築城者 | 有馬経澄? | |||
歴代城主 | 有馬家 | |||
史跡指定 | 昭和57年7月3日 国史跡指定 | |||
現在地 | ||||
長崎県南高来郡北有馬町 |
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略歴 | ||||
・建保4年(1216年)? 有馬経澄が築城 |
<日野江城の沿革>
日野江城は、有馬氏初代の有馬経澄が建保4年(1216年)に築いたと伝えられているそうですが、実際には南北朝時代に築かれたのではないか、とも考えられています。
日野江城は、有馬氏の居城としておよそ400年間機能してきました。第13代当主の有馬晴信はキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名として有名です。1580年には日野江城の麓にセミナリヨ(イエズス会の中等教育機関)が建設されました。1582年には卒業生4人による日本初のヨーロッパ使節団「天正遣欧少年使節」がローマに派遣されています。
使節は8年半の旅を終えて帰国。日野江城にて報告会が開かれましたが、その時の屋敷の様子が
「部屋はすべて黄金の品や華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は最近、有馬殿の手で建てられ、見事な出来栄えとなった城郭の中にある」
と、イエズス会の報告に残されているそうです。実際、平成7年の発掘調査では、金箔の瓦が出土された他、五輪塔地輪が多量に階段の踏石として使用され(仏教徒の弾圧?)ているなど、日野江城の壮大さを垣間見させるような結果が出ているそうです。
しかし、岡本大八事件によって有馬晴信は改易。有馬氏と日野江城の歴史はピリオドをうちました。元和2年(1616年)、有馬氏に代わって、大和五条から松倉重政が日野江城に入りましたが、新たに島原城の築城を始めたために、日野江城は廃城処分となりました。
<管理人の感想> 島原城築城のために、建築物は軒並み破壊され、石垣もほとんど残されていないようですが、空掘の跡が残っています。城までの道のりは案内が出ていますが、たいへん狭い道を進まなければなりません。車の場合は、こすらないようにお気をつけください(^_^;)
<交通・開館情報>
・電車:島原鉄道「北有馬」駅より徒歩20分ほど
・車:車一台がやっと通れるぐらいの狭い道を登って行くと、本丸付近にスペースがあります
<付記>
・本丸跡から、原城跡や天草島を見渡すことができます。
・城跡の付近にセミナリヨの跡碑が立っています。