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広島城

築城年 1589年
分類 平城
別名 鯉城(りじょう)
築城者 毛利輝元
歴代城主 毛利家 → 福島正則 → 浅野家
史跡指定

・国指定史跡(昭和28年3月31日指定)

現在地

広島県広島市中区基町21−1
(旧国名:安芸)
<左写真:再建されたコンクリート天守閣>

略歴

・天正17年(1589年) 毛利輝元が築城開始
・慶長5年 (1600年) 関が原の戦いで毛利輝元が転封され、福島正則が入城
・元和5年 (1619年) 福島正則が改易され、代わって浅野家が入城
・昭和20年(1945年) アメリカ軍による原爆投下で天守閣はじめ建築物が全て倒壊する
・昭和33年(1958年) 鉄筋コンクリート造りで天守閣復興
・平成6年 (1994年) 二の丸表御門、太鼓櫓、平櫓などが再建される

<広島城の沿革>
 広島城は天正17年(1589年)毛利輝元(もうり てるもと)が瀬戸内海の交通要所であった太田川の三角州に、城と城下町を作り始めたことから始まりました。この事業は「島普請」と呼ばれ、中国地方の覇者となった毛利家120万石の威信をかけた大事業であったそうです。築城には10年の歳月を要し、望楼型の五層五階の連結式天守閣をはじめ、数多くの櫓で構成されていました。
 しかし、広島城の完成から間もなく勃発した関が原の戦いで毛利家は敗北。広島城は召し上げられ、代わってに福島正則(ふくしま まさのり)が入城しました。しかし、正則も元和5年(1619年)には、無断で広島城を改修したと言い掛かりをつけられて改易されます。これに代わって入城した浅野家が明治維新まで続きました。

・明治維新後の広島城
 明治維新後も、広島城は天守閣をはじめ、建築物は他城よりも比較的多く保存されていたそうです。しかし、昭和20年(1945年)、アメリカ軍による原子爆弾投下で、天守閣はじめほとんどの建造物が倒壊・焼失してしまいました。
 戦後、昭和33年(1958年)に天守閣がコンクリートで再建されました。また、近年は史跡としての復元整備事業が進み、平成6年(1994年)には二の丸表御門、太鼓櫓、平櫓などが再建されました。

<おすすめ見所>
再建天守閣
 昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリートで再建された天守閣です。現在の本丸跡は樹木が生い茂っているため、天守閣を見るには北の方から見るのが一番いいと思います。
 往時の天守閣は、2基の三重小天守が渡廊下で連結された連結式天守閣でしたが、復元にあたっては大天守単独となりました。中身は歴史博物館になっております。

二の丸表御門(復元)
 木造で再建された二の丸表御門です。大藩に相応しい立派な櫓門になっております。城壁は前面が白漆喰で塗られているのではなく、下半分は板張りになっているのが特徴的ですね。

太鼓櫓と多聞櫓(復元)
 二の丸表御門から東に向って多聞櫓がはしり、隅には太鼓櫓がやはり木造で復元されました。こちらの城壁も、下半分が板張りになっていますね。太鼓櫓は名前のとおり、二階に太鼓が設置されて、城内外に時を知らせていたそうです。


・広島城公式ホームページはこちらです
登城の際は、企画展示や交通アクセスのご確認を。特に、広島城に駐車場はありませんので、車の際は付近の有料駐車場を使うことになります。



掲載日:2008年1月6日
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