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人吉城

築城年 1589年 分類 平山城
別名 三日月城 繊月城
築城者 相良長毎
歴代城主 相良家
史跡指定 国指定史跡
現在地

熊本県人吉市麓町
(旧国名:肥後)
<左写真:中の御門高石垣>

略歴

・建久9年(1198年)    人吉荘の地頭として相良長頼が下向。人吉に館を築く。
・天正17年(1589年)   相良長毎が大改修を開始
・慶長6年(1601年)    本丸・二の丸部分などが竣工
・寛永年間(1624〜44年) 石垣が完成
・文久2年(1862年)    武者返しをつけた石垣を導入
・明治5年(1872年)    払い下げとなり、石垣のみを残す
・平成5年(1993年)    角櫓、長塀、多聞櫓が復元される

<人吉城の沿革>
 人吉城の歴史はたいへん古く、その起源は鎌倉時代の初め頃にまで遡ります。建久9年(1198年)相良長頼(さがら ながより)が人吉荘の地頭となり、この地に城(館?)を築いたことが始まりと言われています。この時、三日月文様の石が出土したので、「三日月城」あるいは「繊月(せんげつ)城」という別名がつけられたそうです。
 北面を球磨川、南と西は胸川を天然の堀とした人吉城は、数々の戦乱を影響を受けながらも、相良氏の居城として機能し続け、石高2万2千石の外様藩として、明治維新まで存続しました。相良家の知名度はあまり高くありませんが、鎌倉時代に得た土地を手放すことなく続いた、数少ない武家の一つであるわけです。
 そんな相良家の居城としての歴史を持つ人吉城が、近世城郭として大きく改築されたのは、天正17年(1589年)からで、途中、工事は何度か中断しながら断続的に続き、寛永16年(1639年)頃に、現在見られる石垣が完成したそうです。本丸・二の丸・三の丸からなる平山城でありながら、水の手門から直接、球磨川水運を利用できるという、特徴ある形態になっております。
 幕末になってからは、「武者返し」と呼ばれる飛び出た屋根のようなものを持つ石垣を導入し、現在でも一部が残っています。廃藩置県で建物は破却されてしまいましたが、残された石垣群が、かつての人吉城の雰囲気を残しています。

<おすすめ見所>
本丸跡
 人吉城の特徴の一つは、本丸に護摩堂が建てられた、ということでしょう。天守閣がない城は、それほど珍しくありませんが、天守閣の代わりに護摩堂が建てられた、というのは他の城ではあまり聞きません。相良家の信仰上の需要だったのでしょうか?
 現在の本丸は、護摩堂の礎石がわかりやすく整備されています。

これぞ新型(?)武者返し!
 「武者返し」というと、熊本城の連想します。最初は傾斜が緩くても、上に行くにつれて勾配がきつくなり、登れなくなる、という石垣です。幕末になってから、人吉城の石垣に取り付けられた「武者返し」はもっと直接的な障壁で、要するに石垣の上に「ひさし」がついているんですね。これでは、ある程度訓練したロッククライマーでないと、登りきるのは難しそうです。


 また、城跡に西側には、2005年に新設された「人吉城歴史館」があります。わかりやすい、新設設計の楽しい資料館です。こちらには、全国的にも珍しい、「地下室に井戸がある武家屋敷」の遺構が保存されています。人吉城を歩く前に、こちらで予習しておいたほうが、楽しめると思います。



探検日:2007年5月6日
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