築城年 | 1589年 | 分類 | 平山城 | |
別名 | 三日月城 繊月城 | |||
築城者 | 相良長毎 | |||
歴代城主 | 相良家 | |||
史跡指定 | 国指定史跡 | |||
現在地 | ||||
熊本県人吉市麓町 |
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略歴 | ||||
・建久9年(1198年) 人吉荘の地頭として相良長頼が下向。人吉に館を築く。 |
<人吉城の沿革>
人吉城の歴史はたいへん古く、その起源は鎌倉時代の初め頃にまで遡ります。建久9年(1198年)、相良長頼(さがら ながより)が人吉荘の地頭となり、この地に城(館?)を築いたことが始まりと言われています。この時、三日月文様の石が出土したので、「三日月城」あるいは「繊月(せんげつ)城」という別名がつけられたそうです。
北面を球磨川、南と西は胸川を天然の堀とした人吉城は、数々の戦乱を影響を受けながらも、相良氏の居城として機能し続け、石高2万2千石の外様藩として、明治維新まで存続しました。相良家の知名度はあまり高くありませんが、鎌倉時代に得た土地を手放すことなく続いた、数少ない武家の一つであるわけです。
そんな相良家の居城としての歴史を持つ人吉城が、近世城郭として大きく改築されたのは、天正17年(1589年)からで、途中、工事は何度か中断しながら断続的に続き、寛永16年(1639年)頃に、現在見られる石垣が完成したそうです。本丸・二の丸・三の丸からなる平山城でありながら、水の手門から直接、球磨川水運を利用できるという、特徴ある形態になっております。
幕末になってからは、「武者返し」と呼ばれる飛び出た屋根のようなものを持つ石垣を導入し、現在でも一部が残っています。廃藩置県で建物は破却されてしまいましたが、残された石垣群が、かつての人吉城の雰囲気を残しています。
<おすすめ見所>
・本丸跡
人吉城の特徴の一つは、本丸に護摩堂が建てられた、ということでしょう。天守閣がない城は、それほど珍しくありませんが、天守閣の代わりに護摩堂が建てられた、というのは他の城ではあまり聞きません。相良家の信仰上の需要だったのでしょうか?
現在の本丸は、護摩堂の礎石がわかりやすく整備されています。
・これぞ新型(?)武者返し!
「武者返し」というと、熊本城の連想します。最初は傾斜が緩くても、上に行くにつれて勾配がきつくなり、登れなくなる、という石垣です。幕末になってから、人吉城の石垣に取り付けられた「武者返し」はもっと直接的な障壁で、要するに石垣の上に「ひさし」がついているんですね。これでは、ある程度訓練したロッククライマーでないと、登りきるのは難しそうです。
また、城跡に西側には、2005年に新設された「人吉城歴史館」があります。わかりやすい、新設設計の楽しい資料館です。こちらには、全国的にも珍しい、「地下室に井戸がある武家屋敷」の遺構が保存されています。人吉城を歩く前に、こちらで予習しておいたほうが、楽しめると思います。