築城年 | 1619年 | |
分類 | 平山城 | |
別名 | 久松城、葦陽城 | |
築城者 | 水野勝成 | |
歴代城主 | 水野家 → 奥平家 → 阿部家 | |
史跡指定 | ・国指定史跡(昭和39年2月7日指定) |
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現在地 |
広島県福山市丸之内1−8 |
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略歴 | ||
・元和6年(1619年) 水野勝成が福山に報じられ、築城開始 |
<福山城の沿革>
福山城の築城が始まったのは元和6年(1619年)。当時は徳川幕府によって一国一城令が布告されており、大名が住む本城以外の「支城」はほとんど破却されている頃の新規築城でした。そのへんの事情を考えると、福山城築城は「特例」として築かれた城であることがわかります。
福山城を築いた水野勝成。彼は徳川家康の母方の縁者にあたる人物でした。つまり、徳川家にとって縁戚の家にあたるわけです。そんなつながりで、水野家は譜代大名の一員として、山陽道の要所である福山10万石の地を任せられたわけです。このような重要な役割を持たされた福山城は、海路陸路の要衝地である芦田川のデルタ地帯に築かれました。東、西、南には二重の堀をめぐらし、北は吉津川を天然の堀としていました。また、重鎮譜代大名の城に相応しい体裁を整えることが望まれ、築城にあたっては、付近の神辺(かんなべ)城や京都の伏見城の建物が移築(詳細後述)された、と伝えられています。天守閣は五層六階地下一階の層塔型と、姫路城に次ぐ規模。さらに、天守閣北面は防衛のために鉄板で覆われいたそうです。このような例はかなり稀ですね。
ちなみに、幕末に活躍した老中・阿部正弘(あべ まさひろ)は福山藩阿部家の第7代藩主で、幕政・藩政の双方で活躍しました。城内には、正弘の銅像が建っています。
・明治維新後の福山城
明治維新後、多くの城は解体され、廃城処分とされましたが、福山城は天守閣をはじめ、多くの建物がそのまま保存されていました。しかし、太平洋戦争の際にアメリカ軍の空襲に遭い、天守閣をはじめ多くの貴重な建物が焼失してしまっていました。
現在は内外の堀は埋められて、三の丸は市街地化していますが、本丸と二の丸は遺構をとどめています。現存している伏見櫓と筋鉄(すじがね)御門をはじめ、再建された天守閣、月見櫓、鏡櫓などが、往時の福山城の姿を偲ばせます。
<おすすめ見所>
・筋鉄御門
福山城の本丸入口に、どーんと大きく構えている立派な門。伏見城の移築と伝えられています。門は「家の顔」とも言えますが、当時の福山城の壮麗さがうかがえる貴重な現存遺構です。
・伏見櫓
上記の筋鉄御門と同じく、伏見城の松の丸東櫓を移築したもの、と伝えられています。写真は本丸の中から撮影したので、いわば裏側から撮影したものになります。二層二階の上に三層目を載せて三層三階になっています。城郭史上、初期の櫓形式としてたいへん貴重な現存遺構です。
・鐘櫓
名が体を表しています。本丸を守る櫓の一つが、この「鐘櫓」。築城当時から城内外に時を告げていた「鐘」をおさめていた櫓です。鐘だけでなく、緊急招集用の太鼓も備えられていたそうです。城内に鐘櫓が残っているのは、全国的に見ても珍しい例であるそうです。