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府内城

築城年 1597〜1602年 分類 平城
築城者 福原直高 竹中重利
歴代城主 福原家 → 早川家 → 竹中家
→ 日根野家 →松平(大給)
別名 荷揚城 白雉城
現在地

大分県大分市荷揚町
(旧国名:豊後)
<左写真:復元櫓と天守台>

略歴

・慶長2年(1597年)  福原直高が築城開始
・慶長6年(1601年)  竹中重利が築城再開
・慶長7年(1602年)  四重の天守閣が完成
・明暦4年(1658年)  松平忠昭が2万2000石で入城
・寛保3年(1743年)  火災により、天守閣はじめ多くの施設を焼失。天守閣は再建されず。
・昭和20年(1945年) 米軍の空襲により、櫓5基が焼失
・昭和41年(1966年) 5基の櫓が鉄筋コンクリート製で復元される

<府内城の沿革>
 府内は鎌倉の頃から豊後国守護・大友家の本拠地として繁栄してきました。しかし、大友氏は次第に没落していったため、この府内に初めて近世城郭を築いたのは豊臣系の武将・福原直高ふくはら なおたか)でした。直高は石田三成の妹婿であり、府内に入る前は臼杵6万石を当てられていました。直高は府内に入るにあたり、さらに6万石を加増され計12万石の大名に昇進しています。直高は、12万石の大名に相応しい新たな居城を、別府湾に面した沿岸地域に築き始めたのでした。
 府内城の歴史は、めまぐるしい領主交代から始まります。慶長4年(1599年)、慶長の役で軍監を務めていた際に不公平があったということで徳川家康により改易され、直高は建設途中の府内を去らざるをえませんでした。
 直高が改易された後は早川長敏はやかわ ながとし)が府内城に入りました。ちなみに長敏は、大友義統が改易された後に、府内6万石に入ってきた大名で、福原直高が来るまでの足掛け3年間、府内を統治した経験がある人物でした。しかし、長敏は翌年の関が原の戦いにおいて西軍についたため、戦後改易されます。
 その後、豊後高田より竹中重利(竹中半兵衛の子)が3万5000石で府内に入城。府内城築城を再開させ、翌年には4層の天守閣が完成しました。3万5000石の大名にしては4層の天守閣は分不相応ですが、これは府内城が12万石の大名の城として築かれた、という経緯があるためでしょう。しかし、重利の子の重義は長崎奉行を務めていた際に不正を咎められ切腹となり、府内竹中藩は取り潰しとなりました。
 竹中家に代わって、下野国壬生城から日根野吉明が2万石で入城しますが、跡継ぎがいなかったために一代で断絶。その後2年間は幕府の管理下に置かれ、杵築松平藩、日出木下藩、臼杵稲葉藩が交代で城番を務めていました。
 明暦4年(1658年)松平忠昭が2万2000石で入城し、以後明治維新まで松平家が府内藩を治めていました。この間の大火で天守閣をはじめ、多くの建築物が焼失してしまい、4層の天守閣はその後再建されることはありませんでした。おそらく、財政的にかなり厳しかったのでしょう。さらに、太平洋戦争で大分市内も米軍の空襲に遭い、5基の櫓も焼失。これらの櫓は戦後に再建されますが、現存しているのは本丸の人質櫓と二の丸の宗門櫓のみであるそうです。

(参考:府内城掲示板、大分歴史事典

<おすすめ見所>
天守台
 かつては4層の壮麗な天守閣が築かれていたそうです。大分市街に囲まれている府内城跡は、城跡公園として整備されています。

復元された廊下橋
 12万石の大名の居城として築かれた府内城は、本丸を中心に東ノ丸、西ノ丸、山里丸などが設けられ、それぞれの廓は堀で囲まれており、各廓はこの廊下橋のようなもので結び付けられていたそうです。復元されたこの廊下橋は、西の丸と山里丸を結んでいるもので、平成8年に復元されました。中を通ることができます。



探検日:2006年12月30日
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