築城年 | 1603〜 1608年 |
分類 | 山城 | |
築城者 | 吉川広家 | |||
歴代城主 | 吉川家 | |||
史跡指定 | ||||
現在地 | ||||
山口県岩国市横山 |
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略歴 | ||||
・慶長8年(1603年) 吉川広家が横山に築城開始 |
<岩国城の沿革>
慶長5年(1600年)、天下分け目の関が原の戦いが終わった後、毛利家の重鎮であった吉川広家(きっかわ ひろいえ:39歳)は、出雲国の月山富田城から周防国岩国3万石(のち、6万石に加増)に転封されました。周防・長門の2国に減封された毛利家にとって、周防の東端である岩国は毛利領を守る東の門としての役割が期待されたそうです。そこで広家は、当時としては珍しく平城ではなく山城を築き、東の備えとしたそうです。
岩国城は、横山という標高200mほどの山頂築かれております。横山は、東・西・北の三方に錦川が流れていたため、これを天然の外堀とした要害の地でした。横山の麓に居館が建設され、横山東側の開けた平野に町割りを行い、城下町が形成されております。岩国城の天守閣は、上層が下層よりも広いという南蛮造であり、岩国藩の象徴として輝いていたそうですが、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に、徳川幕府の一国一城令に配慮して廃城処分となりました。
そして時は流れて第二次世界大戦が終わったあと、岩国城再建の動きが活発化し、天守閣が再建されました。
<岩国城の写真>
・旧天守台
実は、復元された天守閣は昔天守閣があった場所から少しずれたところに復元されたそうです。なので、「旧」天守台跡が存在するわけです。なんでも、「景観」という観光の観点から考えて、横山の麓からも見やすい位置に天守閣が復元された、とか。案内板の説明によると、この天守台は「古式穴太積み(こしきあのうづみ)」と呼ばれる技法に、地方独自の技法が加わったもので、大きめの石の隙間に小さめの石を詰めている他、隅部の角石は算木積み積みの技法が見られているそうです。隅部はほぼ直線になっており、反りがないのが特徴です(直線の方が、構造力学上は安定しているそうです)。
「見た目の美しさよりも、安全性に重点を置いている」
ということで、戦国武将・吉川氏の力強さを象徴しているのではないか、とのことでした。
<管理人の感想> 再建とはいえ、白亜の南蛮造天守閣はなかなか綺麗でした。最上階からの眺めも良かったです。完成してわずか7年で破却された、という点はまさに「敗者の悲劇」を物語っているような気がします。
<開館情報>
・大人:260円