築城年 | 1686年 | |
分類 | 山城 | |
別名 | 霧ヶ城 | |
築城者 | 遠山家、河尻秀隆、森家 | |
歴代城主 | 加藤(遠山)家 → 秋山信友 → 河尻秀隆 → 森家 → 田丸直昌 松平家 → 丹羽家 → 松平家 |
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史跡指定 | 県指定史跡 | |
現在地 |
岐阜県恵那市岩村町 |
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略歴 | ||
・文治元年(1185年) 加藤景廉が遠山庄地頭となる |
<岩村城の沿革>
平氏が滅んだ文治元年(1185年)、源頼朝の重臣であった加藤景廉が遠山庄の地頭に任命されたことから、岩村城の歴史が始まったと伝えられています。景廉の長男・景朝が岩村に移り、地名の「遠山」を名乗るようになってから、以後およそ400年にわたって、岩村城は遠山氏の居城として機能してきました。
・女城主
時は流れて戦国時代。遠山氏は美濃の覇者となった織田家に従っていました。そんな中、岩村城主の遠山景任が子がないまま病死。景任の妻・おつやの方(岩村殿)は織田信長の叔母という、縁戚の間柄であったため、信長の子・坊丸を養子に迎えて岩村城主としました。しかし、坊丸はまだ子供であったため、事実上の城主はおつやの方であったそうです。「女城主」と呼ばれるゆえんです。しかし、間もなく武田家の部将・
秋山信友が軍勢を率いて攻め込んで来ます。この時、おつやの方が信友の妻となることで和議を結び、結果的には信友が岩村城主となったわけです。
こののち、武田家と織田家の戦いの趨勢が織田家に傾くと、織田軍は岩村城を包囲。最後は開城降伏しましたが、結果的に身内に裏切られた信長はこれを許さず、信友とおつやの方、その関係者が、長良川で逆さ磔にして処刑されたという結末になっています。
・その後の岩村城
織田家の重臣の一人・河尻秀隆が岩村城主となって城の修築をすすめ、その次に城主となった森家によって、近世城郭としての岩村城がほぼ完成した、と言われています。その次に城主となった田丸直昌は関が原の戦いで西軍に味方したため改易処分。江戸時代は、譜代の大給松平家が城主となり、その次は丹羽家が城主に。しかし、丹羽家はお家騒動を起こして転封処分となり、再び大給松平家が城主となって、明治維新を迎えました。
<おすすめ見所>
・森に囲まれた石垣
岩村城の見所は、なんと言ってもやはり「石垣」。建物はありませんが、森に囲まれ、苔むした石垣が古城の雰囲気を醸し出しています。また、岩村城は標高717mの位置に築かれており、日本一高い山城であるそうです。実際、岩村城に登ったのは夏の盛りでしたが、木々が日光を遮っているため、わりと涼しかったことを記憶しています。
・太鼓櫓と表御門(再建)
岩村城の麓には、藩主の屋敷などが構えられていたそうです。岩村城の建築物は、ほとんどが明治維新後に取り壊されてしまったのですが、平成2年に太鼓櫓と表御門が再建されました。この奥には、駐車場と岩村町歴史資料館があります。