築城年 | 1532〜54年 | 分類 | 山城 | |
築城者 | 高橋鑑種 | |||
歴代城主 | 高橋家 | |||
史跡指定 | ||||
現在地 | ||||
福岡県太宰府市 |
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略歴 | ||||
・天文年間(1532〜54年)高橋鑑種が宝満城の支城として築城 |
<岩屋城の沿革>
太宰府の北方に位置する山々。現在、四王寺(しおうじ)山と呼ばれている上代には大野山と呼ばれていたそうです。この山には665年、白村江の戦いの後、朝鮮からの防衛線として朝鮮式の山城が築かれたそうです。時は下って戦国時代、この山の中腹あたりに宝満城の史城として築かれたのが岩屋城でした。
岩屋城が有名になったのは、なんといっても天正14年(1586年)の城将・高橋紹運(たかはし じょううん)と島津家による攻防戦でしょう。この頃の九州では、それまで隆盛を誇っていた大友家が衰退し、これに代わって薩摩の島津家が勢力を伸張。九州制覇を目標に、5万ともいわれる大軍を筑前に進めていました。大友家の重臣・高橋紹運は760余名を率いて岩屋城に籠城。再三の降伏勧告を拒否し続け、10日あまりの激しい攻防戦の末、紹運以下、城兵ことごとく討死するという壮烈な戦となりました。この戦いで岩屋城を落としたものの、島津軍の死者は3000名を超えるという大損害を被ったために、これ以上の北上を断念せざるを得なかった、と伝えられております。
その後の岩屋城についての記録はほとんど残っておらず、徳川幕府の一国一城令によって廃城処分となったとも言われておりますが、確かなことはわかっていないそうです。