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金戒光明寺

時代区分幕末分類区分神社寺院旧国名山城
現在地

京都府京都市左京区黒谷町121

関連人物

・法然 ・松平容保 ・新選組

関連事件

・鳥羽伏見の戦い など

金戒光明寺の歴史
 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗の大本山です。承安5年(1175年)に法然がこの地に草庵を結んだのが、浄土宗の寺院の始まりとなりました。現在、黒谷(くろだに)と呼ばれるこの地は、京都御所から東に2kmほどの地点に位置しており、小高い山の上に本堂、山門や墓地が並んでいます。
 金戒光明寺の名前が歴史上、有名になったのは、幕末のことでした。文久2年(1862年)12月24日、幕府に新設された「京都守護職」に任じられた会津藩主の松平容保(まつだいら かたもり)は、藩士1000名を率いて上洛しました。京都守護職に課せられた使命は、尊皇攘夷を唱える志士やそれらのまがいものである不逞浪士による暗殺や強盗などで乱れた京都の治安を回復することでした。これらの志士らは過激派公卿と結びついたために、朝廷内までもが尊皇攘夷派の巣窟となっている状態でした。幕府から見れば、京都は政敵の本拠地のようなものだったことでしょう。藩主の容保をはじめ、君臣一同は決死の覚悟で乗り込んだ、と伝えられています。
 翌年3月。将軍警護のために上洛した浪士組から分離した近藤勇芹沢鴨らは、京都残留の嘆願書を京都守護職に提出。3月12日に京都守護職預り、となり、16日は金戒光明寺にて松平容保との拝謁が行われました。やがて、近藤らの一団は「新選組」の名を授与され、京都の治安維持のために奔走。黒谷の本陣と新選組の屯所では、毎日のように伝令が往復していたそうです。

 会津藩と新選組は、幕府のために京都を奔走して活躍します。しかし、巧みな外交で優位を確保した薩摩藩と、幕府と徹底的に対立する長州藩が結びつくなど、様々な要因で政治面では不利な形勢に追い込まれてしまいました。そして、ついには朝廷の支持を得た薩摩・長州勢力の手によって、会津藩も新選組も京都の地を追われ、会津藩本陣としての金戒光明寺の歴史は幕を閉じることとなりました。

写真中央に写っている建築物が、山門です。木が多かったので、あまりうまく撮れませんでした(-_-;)
金戒光明寺の正面から境内に入ると、左手側に石垣が組まれていました。この石垣が当時のものなのか?はわかりませんでしたが、会津藩の本陣が置かれた黒谷は、その地形的・地理的な条件から、非常時に軍隊を駐留させることができるように、密かに城構えとされていたそうです。
実際に高所まで登ってみると、京都の町並みが一望できる場所がいくつかありました。古地図などによると、遠くは淀川の帆船、さらには大坂城まで見ることができたそうです。

広い墓地の一角に「会津藩殉難者墓地」と刻まれた石碑が立っています。この地には、会津藩が本陣を置いていた期間に殉難した人々、鳥羽伏見の戦いでが埋葬されています。武士ばかりでなく、苗字のない者(使役の人?)や奉公していた婦人なども同様に祀られています。
京都を追放された会津藩は、新政府から賊軍の汚名を着せられたため、鳥羽伏見の戦いでの戦死者は路傍に放置されていたそうです。誰もが新政府による迫害を恐れて、見て見ぬフリをしていた中、会津小鉄なる人物が、会津藩士の遺体の収容に奔走しました。この人物の本名は上阪仙吉といい、新選組の密偵として働くなど、会津藩との縁浅からぬ人物でした。彼は子分を動員して遺体を収容し、荼毘に付して供養したそうです。その後も、墓地を迫害から守るために住職と連携し、墓を守り続けたと伝えられています。

 現在では、6月の第2日曜日に、会津松平家当主の列席の下、会津藩殉難者の追悼法要が行われているそうです。

<管理人の感想>
 すぐそばに有名な平安神宮がありますが、こちらは静かなただずまいを見せていました。山を利用して建築物が建てられており、櫓や城壁、掘などを組み合わせれば、砦としても十分機能しそうな様子がうかがえました。
 お墓が整然と立っている山の上には文殊堂がそびえており、この辺りからの京の眺めはなかなか良かったです。2004年NHK大河ドラマ「新選組!」で、撮影に使われたこともあってか、正門には京都守護職・松平容保公の本陣と書かれたわりと新しい看板がありました。

<交通情報など>
公式ホームページ参照

探検日:2005年1月23日
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