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神社寺院選択
時代区分 | 江戸時代 | 分類区分 | 神社寺院 | 旧国名 | 山城 |
現在地 | 京都府京都市東山区下河原町526番地 |
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重要文化財・史跡・名勝 |
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関連人物 | ・豊臣秀吉 ・北政所(ねね) |
高台寺
高台寺(こうだいじ)は、豊臣秀吉の歿後、秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ:一般には「ねね」の名で知られている女性ですね。秀吉死後は出家して高台院湖月尼と号しています。)が菩提を弔うために慶長11年(1606年)に開いた寺です。
建立当時は関が原の戦いが終わった後。事実上政権を握った徳川幕府と、秀吉の側室・淀君とその子・秀頼ら豊臣家の間で、政治的な関係が微妙な時期でした。秀吉とねねの間に子は産まれませんでしたが、正室として秀吉を家庭内から支え、福島正則、加藤清正らを少年の頃から秀吉の家臣として育ててきたねねは、徳川家康はじめ諸大名から一目置かれる存在でありました。そのような状況もあって、徳川家康は多大な資金援助を行い、建物はたいへん壮麗であったと伝えられています。
寛永元年(1624年)7月、建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号しました。
御陵衛士屯所跡
新選組の参謀でありながら、途中で分離離脱した伊東甲子太郎(いとう かしたろう)は、「御陵衛士(ごりょうえじ)」という組織を結成し、その屯所を高台寺内の月真院に置きました。
月真院の門 |
伊東らが新選組から離脱したのは1866年(慶応2年)9月のこと。「御陵衛士」を拝命したのは1867年(慶応3年)3月10日のことでした。しかし、その後間もなく、新選組との闘争に敗れて伊東は死亡。「御陵衛士」も事実上崩壊してしまいました。 |
<管理人の感想>
高台寺は京都東山地区の観光名所の一つになっています。付近には桜の名所の円山公園や知恩院、八坂神社などもあるため、訪れる人も多いようですね。拙者が訪れた時は紅葉が見ごろの時季でしたが、高台寺は人で溢れかえっておりました。季節ごとにイベントもやっているようです。確かに、その美しい庭園は、名勝に指定されるだけのことはありました。
これはちょっとした疑問。秀吉は死して朝廷から神に列せられたのですが、高台寺を菩提寺として亡き夫を仏式で弔うのは、矛盾しているような気もします。「公」で神として祀られても、「私」として夫を弔いたかったのでしょうか・・??
この辺の事情を知っている方がいらしたら、教えてくれると嬉しいです。
<交通情報など>
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高台寺ホームページ