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久留米城

築城年 1587年 分類 平山城?
築城者 小早川秀包
歴代城主 小早川家 → 田中家 → 有馬家
現在地

福岡県久留米市篠原町
(旧国名:筑後)
<左写真は、月見櫓御門跡>

略歴

・戦国時代永正年間     土豪が砦を築く
・天正15年(1587年) 豊臣秀吉の九州征伐ののち、小早川秀包が3万5000石で入城
・慶長6年(1601年)  関が原の戦いで、田中吉政が筑後の国主となり、田中家の支城となる
・元和7年(1621年)  丹波福知山城より有馬豊氏が21万6000石で入城

<久留米城の沿革>
 久留米は筑後川の中流に位置し、大友氏と竜造寺氏の抗争の地であったそうです。永正年間(1504〜21)に土豪が砦を築いたのが、久留米城の始まりとされています。久留米城が城郭として整備されたのは、天正15年(1587年)豊臣秀吉によって九州が平定された後に3万5000石で入城した小早川秀包の時でした。しかし、秀包は慶長5年(1600年)の関が原の戦いで西軍についたため、戦後の所領を没収されてしまいます。代わって久留米を治めることになったのは、筑後一国32万5000石の国主となった田中吉政でした。吉政は本城を柳川城に置いたため、久留米城は支城となり、半ば放置されているような状態になり、徐々に荒廃していったそうです。
 しかし、元和6年(1620年)に田中家が跡取がいないために取り潰されると、代わって丹波福知山城より有馬豊氏が21万6000石で入城しました。久留米城は有馬藩の本城となったため、近世城郭として再建されることとなりました。筑後川から水を引いて堀を形成し、本丸を中心に二の丸・三の丸を配置。高石垣で周囲を固め、本丸には7棟の櫓を置いてそれらを二重の多聞櫓で連結。天守閣こそなかったものの、壮大な近世の城として完成されたそうです。
 その後、明治維新まで久留米は有馬家の城下町として栄えたそうです。

<管理人の感想>
 高石垣が綺麗に残っている城でした。本丸から見た筑後川の流れや久留米の町並みもなかなか良いです。本丸には有馬家資料館があるのですが、この日は時間切れで見ることができず。次回登城の際に行ってみたいです。

<交通情報>
・車:蜜柑櫓跡に無料駐車場(数台)あり。


探検日:2005年8月6日
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