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松本城

築城年 1593年 分類 平城
築城者 石川数正、石川康長
歴代城主 石川家 → 小笠原家 → 戸田家 
→ 松平家 → 水野家 → 戸田家
史跡指定 国宝
現在地

長野県松本市丸の内
(旧国名:信濃)
<左写真:国宝に指定されている天守閣群>

略歴

・天正10年(1582年) 小笠原貞慶が深志城を奪還。松本城と改称する
・文禄2年(1593年)  石川数正が松本城主となり、近世城郭として修築をすすめる

<松本城の沿革>
 長野県松本市は、古くから信濃の国府として栄えていたそうです。戦国時代、信濃守護の地位にあった小笠原家は、この付近に深志城を築き守りを固めていました。この深志城が、松本城の前身と言われています。
 「松本城」の名が登場するのは、天正10年(1582年)、本能寺の変による動乱の際に、小笠原貞慶が深志城を奪還。「松本城」と改称したのがはじまりであるそうです。
 その後、豊臣秀吉の手によって天下が統一されると松本城には石川数正が封じられました。数正とその子・康長の手によって近世城郭としての修築がすすみ、現存の天守閣、乾小天守、渡櫓が完成しました。黒い外観、五層の巨大な天守閣にはあちこちに鉄砲狭間や石落が設けられ、「戦」を想定した造りが特徴的になっています。
 江戸時代の寛永年間(1624〜43年)になると、天守の附け櫓として、辰巳附櫓、さらに月見櫓が増築されました。こちらは、泰平の世を象徴するかのような優雅な造りになっています。

 こうして築かれた松本城にも、明治維新後の「旧物破壊思想」のもと、破却の危機にさらされました。しかし、一部の有志による活動のおかげで破却の危機を免れて保存され、国宝として現存する12の天守閣に名を連ねています。また、平成11年(1999年)には太鼓門と枡形が復元され、その勇姿を際立たせています。

<おすすめ見所>
天守閣と辰巳附櫓、月見櫓
 天守閣の南と西は水堀になっています。天守閣の右下にあるこぶりな建物が辰巳附櫓、さらにその右に赤い欄干がついているのが月見櫓です。天守閣単体でも十分壮観ですが、付属の櫓が加わることでより美しさが増しています。

太鼓門(復元)
 二の丸の西口にあたる太鼓門。当時は大きな太鼓が備え付けられており、登城の合図や火急の合図として、重要な役割を果たしていたそうです。
 この太鼓門をくぐって中に入ると右手の方には政庁となった「二の丸御殿」の跡があります。



探検日:2007年8月15日
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