史跡探検記表紙 > 城・砦選択

中津城

築城年 1588年 分類 水城
築城者 黒田孝高
歴代城主 黒田家 → 細川家 → 小笠原家
→ 奥平家
別名 扇城
現在地

大分県中津市二ノ丁本丸
(旧国名:豊前)
<左写真:昭和に築かれた天守閣と櫓>

略歴

・天正16年(1588年) 黒田孝高が築城開始
・慶長5年(1600年)  細川忠興が入城し、増築をすすめる
・寛永9年(1632年)  小笠原長次が播磨龍野より8万石で入城する
・享保2年(1717年)  奥平昌成が丹後宮津より10万石で入城
・昭和39年(1964年) 奥平家と中津市の協力で、天守閣が築かれる

<中津城の沿革>
 中津城は、天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐が終わった後に黒田孝高(如水)が中津16万石を与えられたことから始まります。翌年から、黒田家の居城として中津城の築城が始まりました。中津城は瀬戸内海にそそぐ山国川の河口デルタ地域に築かれ、西に山国川、南と東に大家川(のちに、細川忠興が築いた堤でふさがれる)、北は周防灘に面しており、川と海を掘としており、「日本三水城」の一つに数えられています(他は、香川県の高松城と愛媛県の今治城)。「扇城」の別名は、北から南にかけて、扇状になっていることが由来になっているそうです。
 なお、上の写真にも写っている天守閣は、昭和になってから奥平家と中津市が協力して昭和になってから築いた天守閣で、中は主に奥平家に伝わる武具や古文書などが展示されています。中津城の天守閣については、貝原益軒司馬遼太郎が、天守閣は存在しなかった、と書物に著していたため、それが通説になっていましたが、古い絵図には三層の天守閣らしきものが描かれているなど、天守閣の有無についてははっきりしていないようです。16万石という身上から考えると、三層あるいは四層ぐらいの天守閣があっても、不思議はないのですが、真相はどうなのでしょうか??
 関が原の戦いの戦功で、如水の嫡男・黒田長政が筑前福岡51万石に加増転封された後、細川忠興が豊前と豊後の一部32万石の領主として中津城に入城しました。当初、忠興は中津城を細川家の居城とするために改築を進めていましたが、途中から豊前小倉城を居城とし、中津城は自らの隠居城とすることになったそうです。
 細川家が肥後熊本に転封された後、播磨龍野より小笠原家が入りましたが、小笠原家が断絶した後は奥平家が入城。その後、明治維新まで奥平家の居城となったため、現在でも奥平家の城として多くの資料が展示されています。  

(参考:中津城掲示板)

<おすすめ見所>
黒田の石垣と細川の石垣
 この石垣、左右で積み方が違うのがわかるでしょうか?右側は黒田孝高の時代に築かれた石垣で、左側がその後に細川忠興が増築した石垣です。両者の石垣積み方法の違いがわかります。

復元工事が進んでいる石垣
 現在、中津城は発掘調査の結果を基に、内堀を復元する工事が進んでおります。



探検日:2007年1月4日
侍庵トップページへ戻る