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如意輪寺

時代区分太平記分類区分神社寺院旧国名大和
創建

・901〜922年頃

現在地

奈良県吉野郡吉野町吉野山

関連人物

・楠木正行 ・後醍醐天皇

表札には
「楠木正行公遺跡」
と記されておりました。

 太平記に描かれる名場面の一つに、戦場に赴く楠木正行が、決死の覚悟を込めた歌を記した場所が、ここ如意輪寺です。如意輪寺の裏には、後醍醐天皇の御陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)があります。正行は、跡を継いだ後村上天皇に挨拶したのち、後醍醐天皇の御霊にも挨拶に参上したわけです。

 時は正平2年(1347年)12月。正行と楠木党143名は、北朝の高師直率いる軍勢との決戦にあたり、吉野の皇居に今生の別れの挨拶に参上しました。かつて、父の正成が勝ち目のない湊川の戦いに赴いたように、跡継ぎの正行も、勝ち目のない戦いに赴かざるを得なかったのでしょうか・・・。ともあれ、正行は如意輪堂の後醍醐天皇の御陵に詣で、髻を切って奉納し、過去帳に姓名を記すと、鏃を以て、御堂の扉に一首を刻み込んだのです。

かゑらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる

この歌が、辞世の歌であることは間違いないでしょう。この年の8月に挙兵した正行は摂津・河内で連戦連勝し、北朝軍を震撼させました。これに対して幕府は、正行を討つために数万の軍を動員しましたが、対する正行の楠木軍は3000ほど。その差は歴然としております。それでも、戦場に向かった正行の心中はどのようなものだったのでしょうか。
 正平3年(1348年)1月5日。正行の軍は生駒山北麓の四条畷の戦いに敗れて、自決して果てるのでありました。正行、享年23歳でありました。楠木軍を破った高師直は、勢いに乗って兵を吉野に進め、ついに吉野を焼き払ってしまいます。後村上天皇は吉野を捨てて、さらに山奥の賀名生(あのう)まで逃れました。

後醍醐天皇の御陵は、如意輪寺を抜けて階段を登ったところにあります。
遺言により、京都を向いているそうです。

<管理人の感想>
 若くして亡くなった楠木正行の人物像を伝える資料はあまり残っていないそうです。四条畷の戦いと、吉野炎上という結果を見ると、父の正成が歩んだ湊川の戦いと、宮方の都落ち、とよく似ていると感じます。また、大きな戦果をあげながらも、若くして散ったその姿は、北畠顕家にも似ているのではないでしょうか。楠木、と聞くと、「勇敢・悲壮」という言葉が連想されます。

<交通情報など>
・ロープウェイ「吉野山」駅より徒歩40分ほど

探検日:2005年2月12日
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