築城年 | 1686年 | 分類 | 平山城 | |
築城者 | 伊東佑実 | |||
歴代城主 | 島津家 → 伊東家 | |||
史跡指定 | 市指定史跡 | |||
現在地 | ||||
宮崎県日南市飫肥 |
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略歴 | ||||
・長禄2年(1458年) 島津家の新納忠続が飫肥城主となる |
<飫肥城の沿革>
宮崎県宮崎市から南へ、車でおよそ1時間ほどの場所に、昔ながらの街並みを残している飫肥(おび)の町があります。東西南は酒谷川が天然の堀を成し、北面は山林に囲まれている飫肥城は江戸時代、日向の大名・伊東家の居城として栄えてきました。飫肥城の起源ははっきりとしていませんが、長禄2年(1458年)に島津家の家臣である新納忠続(にいろ ただつぐ)が城主として登場するのが史料上の初出であるため、それ以前から「城」として存在していたと考えられています。
戦国時代、薩摩の戦国大名・島津家と伊東家の争いの中で、飫肥城は何度も攻防戦の舞台となりました。島津と伊東の戦いは、最終的には島津に軍配が上がり、伊東家は日向の国から落ち延びていきました。しかし、伊東家に旧領回復の機会が飛び込んできました。日本の中央部分を制覇した豊臣秀吉による天下統一が進み、ついに九州平定(つまり、島津討伐)に乗り出したのです。当時の伊東家当主・伊東祐兵(いとう すけたけ)は、いち早く秀吉の九州平定軍に味方し、その功が認められて天正15年(1587年)、飫肥城は伊東家の手に戻ったのでありました。その後、伊東家は徳川家に従って所領を安堵され、以降、明治維新まで14代に渡って飫肥を治めました(石高はおよそ6万石)。
飫肥城は明治6年(1873年)にすべての建物が破壊されましたが、昭和53年(1978年)に大手門、昭和54年(1979年)には松尾の丸御殿が再建され、城内には歴史資料館が建設され、伊東家と飫肥城の歴史を伝えています。
<おすすめ見所>
・藩校「振徳堂」と小村寿太郎
天保2年(1831年)に設置された飫肥伊東藩の藩校。現在保存されているのは長屋門と主屋です(写真に映っているのは入口から見た主屋)。飫肥伊東藩の人材の多くはここで学び、飫肥を支えていったそうで、中でも全国的に有名なのは明治の外相・小村寿太郎です。幕末に飫肥藩の藩士の家に産まれた彼は、この振徳堂で学び、幼い頃から群を抜いた才能を発揮して将来を期待されていたそうです。
というわけで、飫肥は小村寿太郎の故郷であるわけです。飫肥城のすぐそばに、小村寿太郎記念館があり、彼の生涯を詳しく紹介しています。また、小村の生家も平成になってから復元されています。
・地域の歴史に由来する四半的(しはんまと)
飫肥城の近くに、「ミニ弓道」とも言える「四半的」の体験射場があります。四半的とは、的までの距離が四間半(約8.2m)、弓矢の長さが四尺半(約1.37m)、的の大きさが四寸半(13.8cm)と、全て「四半」であることから、四半的と言うそうです。弓と矢が同じ長さなので、ずいぶんと矢が長いように見えます。この弓矢を使い、座って射つのが四半的の特徴です。
四半的は、戦国時代は永禄11年(1568年)に伊東義佑(いとう よしすけ)が、飫肥城を奪還せんと、軍勢を率いて飫肥城を包囲した時の戦いに由来するそうです。この戦いで、伊東の軍勢に参戦した農民たちは、竹作りの即席半弓を武器とし、「ヤーレソレソレ当タルワイ」と喚声を上げながら島津軍を攻撃して撃退した、と言われております。これを機に、伊東藩では農民武道(娯楽)として「四半的」が許可され、現在に至るそうです。
四半的は弓道で広く使われている弓よりもだいぶ弱くて引きやすいので、女性や子供でも簡単に引くことができます。飫肥まで来た時は、是非挑戦してみてください。