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岡城

築城年 1594〜97年 分類 山城
築城者 中川秀成
歴代城主 緒方家 → 志賀家 → 中川家
史跡指定 国史跡(昭和11年12月26日 指定)
現在地

大分県竹田市大字竹田
(旧国名:豊後)
<左写真:西中仕切跡>

略歴

・文治元年(1185年)  緒方惟栄が築城?
・建武の頃         志賀貞朝が改修し、北朝と戦ったとされる
・天正14年(1586年) 豊薩戦争で志賀親次が島津の大軍を相手に籠城
・文禄2年(1593年)  大友義統が改易されると共に、志賀親次も岡城を退去
・文禄3年(1594年)  播磨三木城から中川秀成が入城。近世城郭化を進める
・慶長元年(1597年)  本丸が完成
・寛文3年(1663年)  西の丸御殿が完成し、城の中心部となる
・明治7年(1874年)  廃城処分となり、建物は全て破壊される

<岡城の沿革>
 岡城の歴史は古く、壇ノ浦で平氏が滅んだ文治元年(1185)年に、緒方惟栄(おがた これよし)が築いたと伝えられているそうです。その目的は、源頼朝と仲違いした源義経を迎え入れるため、だったそうですが、その目的は達成されませんでした。
 その後、南北朝の戦乱で南朝に味方した志賀貞朝(しが さだとも)とその一族がこの付近に進出し、岡城が志賀家の居城となったそうです。白滝川を天然の堀とした岡城は、難攻不落の山城と評価されており、天正14年(1586年)の豊薩戦争では、島津の大軍に包囲されますが、城主の志賀親次(しが ちかよし)がよく戦って守り抜いております。
 文禄2年(1593)年、豊後の大友義統(おおとも よしむね)が改易されたことに伴って志賀親次も岡城を退去。翌年2月、これに代わって播磨国三木城から中川秀成なかがわ ひでしげ:25歳 中川清秀の次男。兄・秀政の跡を継いでいた。)が入城。秀成は、岡城を近世城郭に改築し、現在の遺構は中川家の築城によるものとなっております。本丸は慶長元年(1597)年に完成していますが、その後も付属施設の増築が行われたそうです。中川家は転封されることなく岡城を治め続け、明治維新を迎えました。明治になって城の建物は破却されましたが、この地に誕生した 滝廉太郎の名曲『荒城の月』のモデルは岡城だった、と言われております。

<おすすめ見所>
大手門前の坂道
 登城口はいくつかありますが、一般的なのはやはり大手門を通るルート。坂と巨大な石垣群が、かつての山城の雰囲気を醸し出しております。

大手門跡
 上の坂道をえっさほいさと登って行くと、待ち構えているのが大手門。坂の上にどーんと構えていたであろう、かつての大手門はかなりの迫力だったんでしょうな〜。大手門を超えると、西側は西の丸御殿や家老屋敷、東側には本丸・二の丸・三の丸が配置されています。どの曲輪も綺麗に整備されている点は、さすがに国史跡でした。岡城の敷地面積はかなり広めで、のんびりと全部を散歩して回ると2時間ぐらいはかかりそうです。

滝廉太郎像
 『荒城の月』の作曲者・滝廉太郎氏の像は、二の丸にありました。
<その他>
100台ぐらいは止まれる無料駐車場があります。ちなみに、登城料は300円ですが、登城券と一緒に城の縄張りと略歴が記された巻物がもらえるんです(写真はこちら)。こういう巻物型パンフレットって面白いですね!
また、竹田市は城下町の風情をよく残しており、「九州の小京都」と呼ばれているそうです。のんびり観光するのもいいと思います。

探検日:2006年11月3日
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