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岡山城

築城年 1597年
分類 平山城
別名 烏城、金烏城
築城者 宇喜多秀家
歴代城主 宇喜多家 → 小早川秀秋 → 池田家
史跡指定

・国指定史跡
・重要文化財:月見櫓、西丸西手櫓

現在地

岡山県岡山市丸の内2−3−1
(旧国名:備前)
<左写真:>

略歴

・天正18年(1590年) 宇喜多秀家が築城開始
・慶長2年 (1597年) 天守閣が竣工し、ほぼ完成
・慶長5年 (1600年) 宇喜多秀家が改易され小早川秀秋が城主となる
・慶長8年 (1603年) 病死した小早川秀秋に代わって池田忠継が城主となる
・昭和20年(1945年) 太平洋戦争で国宝だった天守閣が焼失
・昭和41年(1966年) コンクリート造りで天守閣復元

<岡山城の沿革>
 岡山城は天正18年(1590年)、備前・美作、備中の一部を領有し合わせて57万4000石の大名となった宇喜多秀家(うきた ひでいえ)が築城を開始し、慶長2年(1597年)に完成させた城です。天守台が不当辺五角形という極めて特殊な形状になっており、織田信長が築いた安土城をモデルにして作られた、と考えられています。
 岡山城が築かれる以前は、現在よりも西に200mほどのあたりに「石山城」と呼ばれる城が築かれており、金光氏の居城となっていました。しかし、秀家の父・宇喜多直家(うきた なおいえ)天正元年(1573年)に城主の金光宗高(かねみつ むねたか)を滅ぼし、自らの居城としました。直家の跡を継いだ秀家は、豊臣秀吉に可愛がられ、上記のような大大名となったため、石山城の代わりに岡山城を築いたわけです。

 その後、関が原の戦いに敗れた秀家は捕らえられて八丈島に流されてしまい、宇喜多家は滅びました。代わって、小早川秀秋が岡山城主となりますが、わずか2年で秀秋は病死したため、これも取り潰し。代わって、池田忠継(いけだ ただつぐ)が31万5000石で入城。以後、明治維新まで池田家の居城として、機能していきました。

・明治維新後の大洲城
 明治2年(1869年)、岡山城は国有となりますが、35基の櫓と21の門を持つ巨大な城を維持することができず、解体、破却が進み、明治15年(1882年)の時点では天守閣、月見櫓、西丸西手櫓、石山門の4つを残すのみ、となっていたそうです。これらは昭和になって「国宝」に指定されましたが、昭和20年(1945年)、米軍の空襲によって天守閣と石山門は焼失してしまいました。
 昭和41年(1966年)、コンクリート造りで天守閣が再建され、現在に至ります。

<おすすめ見所>
天守閣
 「烏城」という別名がつけられるのも納得できる、黒の天守閣になっています。五層六階の巨大な天守閣の内部は歴史博物館となっており、宇喜多直家の時代から池田氏の時代までの歴史が勉強できる構造になっていました。
 それにしても、この前の戦争で焼失してしまったのが実に悔やまれます。

月見櫓
 本丸を守る櫓の一つ「月見櫓」は、現存櫓の一つであり、国の重要文化財に指定されています。この櫓は池田忠雄(いけだ ただかつ)の頃に増築されたもので、土台となる石垣も野面積ではなく、切石を用いた打込萩になっています。

時代の異なる石垣
 左右で、石の形が違うことがわかるでしょうか?左側は、宇喜多時代に積まれた石垣で、右側は小早川時代に積まれた石垣です。修築の時によって、石垣の積み方や使われる石の形が違うことがよくわかる一例です。ちなみに、説明板には
「秀家は安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいるのに対し、秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいる。」
と、秀家贔屓の解説になっていました。



探検日:2008年1月2日
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