築城年 | ※1608〜11年 | 分類 | 平城 | |
築城者 | 鍋島直茂 | |||
別名 | 沈み城 亀甲城 | |||
歴代城主 | 鍋島家 | |||
史跡指定 | ・重要文化財 鯱の門(昭和32年6月8日指定) | |||
現在地 | ||||
佐賀県佐賀市城内2−18−1 |
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略歴 | ||||
・慶長13年(1608年) 佐賀城総普請始まる |
<佐賀城の沿革>
佐賀城の前身は、戦国大名・龍造寺氏の居城・村中城でありました。天正12年(1584年)、肥前国島原の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死したことを機に、龍造寺家の実権を握った鍋島直茂は、村中城の再建計画を練っていたそうです。しかし、当時は隆信の嫡男・龍造寺政家が存命であったため、計画を実行に移すことはできませんでした。佐賀城が鍋島家の居城として普請が進められたのは、鍋島家が徳川幕府によって正当な佐賀藩主として認められた後からだったそうです。
こうして完成した佐賀鍋島藩36万石の佐賀城は、五層の天守閣を持つ雄大な城として輝いていましたが、二度の火災に遭うという不運に見舞われてしまいます。財政的にもたいへん苦しい状態でしたが、明君で知られる10代藩主の鍋島直正(閑叟)(なべしま なおまさ(かんそう))が藩政改革を断行。肥前佐賀藩が、幕末の雄藩として活躍する礎となっております。
佐賀の乱
明治維新後、西側で不平士族の反乱が続発しましたが、そのはしりとなったのが明治7年(1874年)の「佐賀の乱」でした。江藤新平ら一派は佐賀城を奪い、新政府軍を相手に激しい籠城戦を繰り広げました。この乱は圧倒的多数の新政府軍によって間もなく鎮圧されてしまいますが、この時の戦いの弾痕が、鯱の門に残っています。以後、佐賀城は「城」としての役割を終え、城の跡地には裁判所が置かれました。
<おすすめ見所> JR佐賀駅から徒歩10分ほどで行ける佐賀城は、佐賀の中心地に位置しており、当時の城下町の中心として栄えていたことが偲ばれます。
本丸御殿が復元され、歴史資料館として新たにオープンし、佐賀城の歴史をわかりやすく綺麗に紹介されております。特に、発掘調査や復元の過程などが詳細に解説されており、復元事業の一端を学ぶのに適しています。また、入場料が決められておらず、観客の満足度に応じて分をお願いする、と一風変わった取り組みもしております。こういう新しい取り組みは拙者も興味あるところ。今後の発展が楽しみです。
国の重要文化財に指定されている「鯱の門」(上写真)は、佐賀城のシンボルとして観光パンフレットにもよく載っております。上記の「佐賀の乱」の際の弾痕をはじめ、歴史の風格を感じさせる門構えが見事です。
<開館情報>
佐賀城本丸歴史館の公式ホームページ(たいへん綺麗です!)があるので、こちらも合わせてご覧ください。
佐賀城本丸歴史館ホームページ