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閑谷学校

時代区分 江戸時代
関連人物 池田光政
現在地

岡山県備前市閑谷

昭和29年(1954年) 特別史跡 指定
昭和28年(1953年) 講堂が国宝指定
閑谷神社、聖廟、石塀などは重要文化財指定

略歴

・寛文10年(1670年) 池田光政が家臣の津田永忠に学校建設を命じる
・延宝元年 (1673年) 講堂が完成し、池田光政が臨学する
・元禄14年(1701年) 第二期工事が完成し、現存している建物群が完成する

<閑谷学校の歩み>
 「閑谷(しずたに)学校」の名称は、高速道路で配っている地図にも「名勝観光地」として記されております。というのも、学校の講堂は国宝に指定されており、その他の建造物群も重要文化財に指定されており、文化的価値はたいへん高い施設となっております。また、歴史的な視点に立っても、閑谷学校は庶民を対象とした藩営の学校、ということでたいへん意味のある場所となっております。
 閑谷学校の建設が始まったのは寛文10年(1670年)。岡山藩主の池田光政いけだ みつまさ:62歳)が、家臣の津田永忠つだ ながただ:31歳)に命じ、工事が始まりました。池田光政は、江戸期の大名の中でも徳川光圀保科正之と並んで「天下の三名君」と讃えられている大名です。光政は、日常の政務の合間や参勤交代の道中など、わずかな暇を見つけては儒教の本を読むなど、儒教にかける思いはたいへん大きいものだったそうです。藩士教育の藩校は、閑谷学校建設の前に既に作っており、また庶民教育を目的とした手習所(いわゆる寺子屋)は、領内に123ヶ所も作られました。そんな光政の強い思いが込められた閑谷学校は、池田家が転封された後も学校経営が存続できるように、周囲の田を学校の所有とするなどの工夫もされておりました。
 光政の歿後、閑谷学校は藩の財政難と共に衰退していった時期もありましたが、新たに藩校を作ろうとする藩からの見学者や著名人が来訪し、大鳥圭介などは自ら入門するなど、閑谷学校の名は天下に知れ渡っていたそうです。
 明治維新によって、閑谷学校は一時閉鎖されましたが、備中松山藩の藩政改革を断行した山田方谷(やまだ ほうこく)を招いて再興され、その後も新校舎が昭和初期まで学校として使われる続けました。
 現在、閑谷学校は特別史跡としてきれいに保存されております。園内にある孔子を祀った聖廟の前には一対の楷の木が植えられている他、楓も多く植えられているため、秋には紅葉がたいへん美しいそうです。

打ち込みはぎ式石塀(重要文化財)
元禄14年(1701年)に完成。閑谷学校の敷地の周囲765mにおよぶ石塀。雑草木が生えないように加工されており、300年以上経った現在も美しい形を保持している。

<交通情報・入園情報>
・入園料:300円
・開園時間:9時〜17時
・休園日:12月29日〜31日
財団法人特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会ホームページ

探検日:2006年5月4日
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