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洲本城

築城年 永正年間
1500年代初頭
分類 山城
築城者 安宅氏
別名 三熊城
歴代城主 安宅家 → 仙石家 → 脇坂家 → 蜂須賀家
史跡指定 国指定史跡(平成11年1月14日指定)
現在地

兵庫県洲本市小路谷
(旧国名:淡路)
<本丸入口付近の石垣>

略歴

・永正年間(1500年初頭) 熊野水軍の安宅氏が築城開始
・天正9年(1581年)   織田信長の命により、羽柴秀吉が洲本城を落す
・天正10年(1582年)  秀吉麾下の仙石秀久が洲本城を長宗我部家から奪還し城主となる
・天正13年(1585年)  秀吉の四国遠征始まる。仙石秀久に代わって脇坂安治が城主となる
・慶長14年(1609年)  脇坂安治が伊予大洲に転封され、藤堂高虎の預かりとなる
・慶長16年(1611年)  姫路城主池田輝政の三男忠雄が淡路を領有し、洲本城を廃城とする
・元和元年(1615年)   阿波国主の蜂須賀至鎮の領国となり、稲田氏が城代として駐留する

<洲本城の沿革>
 洲本(すもと)城の歴史は、大阪湾の水軍の拠点として熊野水軍の安宅氏が三熊山に城を築いたことから始まったそうです。戦国時代になると、近畿で勢力を伸ばしていた三好氏が水軍の力に着目し、一族を安宅氏の養子に入れることで取り込み、以後は三好氏の軍事力の要としての役割を果たし、三好家の会議が洲本城で開催されたこともありました。
 洲本城の歴史が大きく動き始めるのは織田信長が台頭する頃でした。信長が近畿を席巻すると同時に三好氏は没落し、天正9年(1581年)に信長の命を受けた羽柴秀吉の攻撃を受けて、洲本城は開城降伏しました。その後、天正10年(1582年)、近畿進出を狙う長宗我部家が土着の豪族を味方につけて洲本城を奪いますが、山崎の戦いの折に、秀吉が部下の仙石秀久を派遣して奪還。秀久は洲本城主となりました。その後の四国遠征の際には秀吉軍の拠点として機能し、仙石秀久に代わって脇坂安治が洲本城主となりました。脇坂安治の在城期間は20年以上に及び、現在残っている遺構は、ほぼこの時代に築かれたものであるそうです。
 関が原の戦いが終わり脇坂家が転封されると、洲本城は藤堂高虎の管理下に置かれ、徳川家康の内意を受けて、城普請は中止されたそうです。その後、姫路城主の池田輝政が淡路を領有し、輝政の三男・忠雄が淡路島を治めましたが、忠雄は洲本城を廃城とし、代わりに南方の由良成山城を修築して居城としました。以後、しばらく洲本城は放置されておりました。
 大坂の陣の後、淡路が阿波の蜂須賀家の領国となると、蜂須賀家は家老の稲田家を城代として淡路島に派遣します。当初、由良成山城が居城となりましたが、土地が狭くて何かと不便だという理由で、稲田氏は幕府に洲本城の使用を申請。幕府もこれを認め、洲本城への移転作業が始まりました。しかし、山上に新たな城郭を築くことはせず、山麓に居館と堀、石垣を設けた「居館」を建設して稲田氏の拠点としたそうです。
 稲田氏は、蜂須賀家の家臣という位置づけではありますが、実質的には淡路の国主として活動しておりました。これが明治維新の際に問題となって一騒動起こり、映画「北の零年」の題材にもなった蝦夷地の開拓へと歴史が繋がっていきます。

<洲本城の写真>
天守閣風展望台
 本丸の天守台(?)に天守閣のような建物がそびえておりました。現地には何の説明書きもなかったのですが、後で調べたところによると、こちらは昭和3年(1928年)に、昭和天皇の即位記念として建築されたものであり、かつての天守閣を復元したものではないそうです。

<管理人の感想>
 石垣がよく残っている静かな城跡でした。本丸から見える大阪湾の眺めもきれいで、天気の良い日に散歩に訪れるのもいいと思います。天守閣風の建物は市内からも見えるので目立つのですが、残念ながら歴史的な価値はあまりないです。国史跡なのにもったいない。。もう少し、整備が進めば立派な城跡になると思うのですが・・・。

<交通情報>
・車:山頂付近に数台停めることができます。

探検日:2006年4月30日
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