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高田城

築城年 1614年 分類 平城
築城者 松平忠輝
歴代城主 松平忠輝 → 酒井家 → 松平家 → 勤番
→ 稲葉家 → 戸田家 → 松平家 → 榊原家
史跡指定 県指定史跡
現在地

新潟県上越市本城町6−1
(旧国名:越後)
<左写真:シンボルの三重櫓>

略歴

・慶長19年(1614年) 松平忠輝の居城として、幕府の命により着工
・寛文5年(1655年)  宝暦大地震により、天守閣代わりの二重櫓倒壊。後に、三重櫓で再建される
・明治4年(1871年)  火災により焼失

<高田城の沿革>
 高田城は、越後の領主であった松平忠輝まつだいら ただてる:徳川家康の六男)が慶長18年(1613年)に築城計画を立て、翌年より着工され、わずか4か月間で竣工しました。高田城築城は、「国役普請(幕府の命による工事)」とされ、忠輝の舅である伊達政宗を総裁として東北・北陸の13の大名によって普請されました。築城の背景としては、大坂の陣を間近に控え、豊臣家恩顧の大名である加賀の前田利常や米沢の上杉景勝に対する牽制の意味があった、と考えられています。忠輝が改易された後も、高田城城主の座は譜代大名が入れ替わりながら担当し、北陸地方の要衝としての機能を果たしました。
 高田城の大きな特徴の一つとして天守閣がないことが挙げられます。近世城郭の象徴ともいえる天守閣が立てられなかった理由はやはり、4か月間というたいへん急な突貫工事であったため、と考えられています。同様に、石垣がないことも特徴の一つです。これもまた、余りに短い工事期間が原因であった、と考えられています。

 寛文5年(1655年)の宝暦大地震により、天守閣の代わりであった二重櫓が倒壊してしまったため、後に三重櫓が立てられました。これが、現在再建されている三重櫓のモデルになっているそうです。その後も、地震や火災などに見舞われ、その度に規模は縮小していきました。三重櫓は、明治4年(1871年)の火災で焼失して以来、再建されることはありませんでしたが、上越市発足20周年記念事業として、三重櫓が木造で再建。また、平成14年(2002年)には、二の丸と本丸をつないでいた極楽橋が木造で再建されるなど、史跡公園として整備されています。 また、春になると桜の名所として多くの人で賑わう場所です。

<交通情報>
三重櫓付近に、高田公園無料駐車場がいくつかあり。

探検日:2008年8月23日
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