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高館義経堂

時代区分 源平合戦
関連人物

源義経
(左写真のお堂の中に、義経像が祀られております)

現在地

岩手県平泉町

<高館義経堂の沿革>
 平安時代後期。良質の馬と、金を産出していた平泉は、奥州藤原氏の本拠地としてたいへん栄えておりました。中尊寺をはじめ、平泉の町にはあちこちに当時の史跡が残っております。高館義経堂(たかだちぎけいどう)は、兄・源頼朝に追われ、奥州藤原氏のもとに庇護された源義経の居館の跡に建てられたお堂です。高館には、かつて判官館(ほうがんだて)という別名がついておりました。高館義経堂は、中尊寺から東に1kmほどの丘に位置しており、丘からは悠々と流れる北上川を一望することができます。
 奥州藤原氏第3代の藤原秀衡は、「義経を擁して平泉を発展させよ」という遺言を残しますが、跡継ぎの藤原泰衡は、鎌倉の頼朝の圧迫を防ぎきれませんでした。文治5年(1189年)閏4月30日、義経は泰衡の急襲を受け、妻子と共に自害して果てました。この時、義経の家来として有名な弁慶が、義経を守るべく敵の矢を受けて立ったまま死んだ、という伝説も残っております。ちなみに、義経は北海道まで落ち延びて逃れたという説や、さらにはモンゴルに渡ってチンギス=ハンになった、という説もありますが、いずれも確証たるものはありません。
 江戸時代の天和3年(1683年)、仙台伊達藩第四代藩主の伊達綱村(だて つなむら)が、義経を偲んで高館に建立したのが、現在の高館義経堂になっております。義経堂の下にある宝物館には、高館一帯から出土された鏃や兜の鉢が展示されております。

<義経は高館で死んだのか?管理人の考察>
 現代の東北、北海道には、落ち延びた義経伝説が点在しています。これらの義経伝説を線で結んでいくと、義経の逃走経路として、一つの道になるそうです。人気の高かった義経は、江戸時代の頃から民衆の人気を集めており、義経が落ち延びたという説は、一般民衆にもある程度受け入れられていた、と考えられています。その点を含めると、義経の死を惜しんだ人々の中で、いつの間にか「義経公は高館で死んではいない。落ち延びて、命を長らえたのだ。」という話が信じられ、それが義経伝説を作り上げた、とも考えられます。さて、義経は本当に高館で死んだのでしょうか?
(注:ここからは管理人の私見になります。)
 まず、義経の死は誰にも確認されていないのではないでしょうか。高館に追い詰められた義経は屋敷に火をかけて自刃した、ということはいくつかの記録にも残っています。ここまでは真実であると仮定してもよいでしょう。その後、義経の首が酒漬けになって鎌倉に送られ、梶原景時らが首の確認を行っています。これも「吾妻鏡」に記されている記録なので、真実と見てよいでしょう。この時、梶原らが検分した首は、果たして義経の首だと認識できる状態だったのでしょうか?
 奥州藤原氏が、義経の首を鎌倉に差し出すためには、火がかけられた屋敷から義経の遺体を見つけ出さなければなりません。この時点で見つからなければ、鎮火した館、あるいは火事で崩壊した館の跡から、義経の首を見つけ出さなければなりません。このような状況で、義経の首を発見することは可能なのでしょうか?確率的には、たいへん低いものであると思われます。後の時代に、本能寺の変で寺に火をかけて自害した織田信長の首も、必死の探索が行われたにも関わらず、発見できませんでした。仮に、発見できたとしても、火をかけられた館から見つけ出した首の保存状態は低いものであったと考えられます。これらの状況を考えると、義経が高館で死んだとは、断定できないのではないでしょうか?
 もう一つ、藤原泰衡の対応についても、ある憶測が浮上してきます。泰衡は、父の遺言を守らずに義経を討ったうえに、最後には頼朝に滅ぼされているため、たいへん評価が低くなっていますが、結果だけで人物評をするのは危険です。平家を滅ぼし、日本の半分以上を勢力下に置いた頼朝からのプレッシャーは、泰衡ならずとも、相当大きなものであったことでしょう。秀衡全盛期の頃に比べれば、奥州藤原氏の勢力は相対的に大きく低下していたはずです。その状況下で、奥州藤原氏が頼朝の圧迫を避けるためには、義経を討ったと見せかけて、偽首を差し出すという方法が考えられるのではないでしょうか?戦に強い義経を匿っておけば、後に鎌倉と戦になった折にも戦力として期待できますし(結果としては、奥州藤原氏と頼朝の戦に義経は姿を現していません。)、父の遺言も守ることができます。
 これらの条件を考えると、義経が高館で死んだとは断定できないと考えます。落ち延びたという断定もできませんが・・。真実は如何に??

<交通情報・入園情報>
・電車:JR「平泉」駅より徒歩15分ほど
・入園料:大人200円 小・中学生50円
・開園時間:8:30〜16:00(季節により異なる)

探検日:2005年5月2日
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