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城・砦選択

高取城

時代区分幕末分類区分城・砦旧国名大和
現在地奈良県高市郡高取町
国史跡(昭和28年3月31日指定)
関連人物

関連事件

<高取城のあゆみ>

高取(たかとり)城は南北朝時代に、高取山(583.9m)に建造された典型的な山城。元弘2年(1332年)に築かれたという説がありますが、定かではないそうです。1583年まで城主は越智氏(一時期は子嶋氏になった)で、その頃に城の形態はほぼできあがっていたと考えられております。天正13年(1585年)に豊臣秀長の家臣・本多氏が入城してから近世的城郭の建造が始まったそうです。
江戸時代になって本多氏が断絶した後、寛永17年(1640年)に植村家政が入城。以来、植村氏が高取藩主として明治維新まで続きました。ちなみに高取藩は、幕末動乱期に大和で蜂起した討幕思想の天誅組と交戦し、打ち破っております。
高取城は明治維新で廃城となって以来、建造物はほぼ全て破却されましたが、石垣は一部補修したものを除いて、ほぼ昔のまま保存されているそうです。
昭和28年3月31日に国史跡に指定されました。

二の門跡

ご覧の通り、草木がぼうぼうと生い茂っております。

さて、583.9mの山頂にある城に行くとすれば、けっこうな山登りになる、と多くの人は思うでしょう。確かにその通りです。拙者は近くまで来たついでに行ってみる、という気楽な動機で登り始めて、ちと後悔しました(^_^;)。
途中の砂防公園までは道も舗装されており、田園風景を楽しみながら登れますが、そこから約1時間、険しい山道が続きます。勢いに任せてどんどん登ったのですが、行けども行けども城跡など見えません。いい加減、疲れが溜まって士気が下がりかけた頃になって、ようやく左写真の二の門跡が見えました。

高取城は、城内と郭内に分けることができ、城内敷地は約10000uで周囲約3km。郭内は約60000uで周囲約30kmと、かなり広大な敷地を持っているのです。
二の門まで来ても、本丸まではまだけっこうかかります。日暮れの時間が迫ってきたので、速度を上げて急いで登りました。かなりしんどいです。

高取城本丸跡

二の門から登り続けること約15分。やっとこさ本丸跡に到着しました。汗だくです(^_^;)。
史跡巡りと言うよりは、山登りと言った方が正しい場所でありますな。
本丸の天守台はもちろん、諸所に石垣が残されており、なかなか味わい深い場所でありました。もうちょっと、登りやすい城ならのんびり秋を満喫できたかもしれません。が、此度は日が暮れる前までに下山するのに一生懸命で、景色や雰囲気に浸る余裕はありませんでした。

たつみ高取雪かとみれば 雪でござらぬ土佐の城
これは昔、奈良盆地から高取城を見上げた景色を歌ったものです。明治20年頃のものと思われる高取城の写真が残っているのですが(もちろん白黒)、その写真からも城壁は姫路城のような白だったと思われました。それにしても「土佐(現在の高知県)の城」とありますが、ここは大和の国。なんで土佐の城と表現されているのでしょうか?同じように、高取町には「土佐」「薩摩」「兵庫」など、他国の地名がそのまま使われている土地があるのです。何故なのでしょうか?

本丸に来る途中の国見櫓からは、奈良盆地が一望できます。「国見」という名に恥じない眺望であります。しんどいですが、一見の価値はあると思います。

<交通手段>
・近鉄吉野線「壺阪山」駅から徒歩約1時間半。
・駐車場の有無は不明ですが、壺坂寺方面から東を回ってくる形で、途中まで車で来ることは可能。

探検日:2003年11月1日
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