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城・砦選択

竹田城

時代区分戦国時代分類区分城・砦旧国名但馬
現在地兵庫県朝来郡和田山町竹田

関連人物

・羽柴秀長

関連事件

但馬にある竹田城(別名:虎臥とらふす城)は、日本全国でもまれに見るほど遺構をよく残している山城で、国史跡に指定されております。古城山の最高峰に築かれた天守台を中央に、本丸・南北二の丸、三の丸、北千畳・南千畳・花屋敷を配し、平面図を見ると天守を中心とした三つ葉型に見えます。山の頂を巧みに使った構成は見事なものであり、麓の盆地からでもその石垣はよく見えました。天守閣はじめ、建造物が存在していた時の偉容が目に浮かぶようでした。
映画「天と地と」では上杉謙信の居城・春日山城として使われ、撮影用の特設城が存在したこともありました。

<竹田城の歴史>

永享3年
1431年
山名持豊(宗全)麾下の国人・太田垣氏が竹田城構築に着手する。
嘉吉3年
1433年
竹田城完成。初代城主は太田垣光景。
永禄12年
1569年
羽柴秀吉が但馬に侵攻。
永禄13年
1570年
太田垣輝延が竹田城主となる。
天正元年
1573年
毛利家が但馬に侵攻。
天正5年
1577年
羽柴秀吉が播磨を平定。弟の秀長に但馬攻略を任せる。
天正6年
1578年
羽柴秀長が竹田城主となる。
天正8年
1580年
羽柴秀吉、再度但馬に侵攻。毛利家勢力は但馬から撤退し、太田垣輝延は出奔。
桑山重晴が竹田城主(1万石)となる。
天正13年
1585年
桑山重晴が和歌山城に転封。代わって赤松広秀が2万石で竹田城主となる。
慶長5年
1600年
関が原の戦いで赤松広秀が西軍に加わり、丹後田辺城を攻める。
西軍敗北後、鳥取城攻めに加わるが大火の責任をとって自刃。
竹田城は廃城となる。
元和元年
1615年
生野代官所の支配下に置かれる。
昭和14年
1939年
竹田町役場の所有となる。
昭和18年
1943年
国史跡に指定される。
昭和46年
1971年
石垣復元工事が始まる。
昭和55年
1980年
石垣復元工事完了。

中腹の駐車場のすぐそばに、竹田城の案内板と自動音声案内装置がり、ボタンを押すと竹田城の歴史を語ってくれます。また、登山道の反対側には、かつての戦で亡くなった戦死者を祀る供養塔がありました。
さて、ここからは乗り物はなし。自力で登らねばなりません。拙者は歩くことには慣れている方なのですが、この山道にはさすがに苦戦しました(^_^;)。いきなり急勾配の坂が休む間もなく続き、これだけでかなり体力を消耗してしまいました。この山道を登りきると、城の西側、花屋敷という郭に出ます。

花屋敷より

花屋敷より、天守台を臨んだ一枚。花屋敷という名前の由来はわかりませぬが、一面草地で花は咲いておりませんでした。昔は花畑でもあったのでしょうか?

さて、まずは本丸天守台へ。天守台は急な石垣になっており、最上段に上るにはちょっとした梯子を登らねばなりません。最上段からはあたり一帯の盆地が東西南北に広がり、周囲の様子が一目でわかりました。それにしても、ここはまさに山城。周囲も山で、いかにも山の中の土地、といった趣がありました。

北千畳 南千畳

本丸の北側には北千畳という郭が備えられております。夏だったので草がぼうぼうに伸びていると思いきや、きれいに刈り取られて整備されておりました。

一方こちらは南千畳。こちら側には門の跡もありました。

これほど見事に石垣が残っている山城はそうはないのではないでしょうか?昔、石垣復元工事が行われましたが、それは一部の範囲だけで、ほとんどは築城当時のものがそのまま残っているそうです。山城好きの方にはお薦めの城であります。今回の探検は夏でしたが、春・秋は桜と紅葉が、そして冬は雪景色(登るのは大変ですが)と、四季折々の情景を楽しむのにもよい場所だと思います。また来よう!竹田城(^o^)!

<交通手段>
・播但道「和田山」インターより車で20分ほど。山の中腹に駐車場(50台)あり。
・車がないと徒歩で登るしかありません。JR播但線「竹田」駅より徒歩1時間ほど。

此度の竹田城探検にご同行いただいた一門衆の皆様にこの場を借りて深く御礼申し上げまする。

探検日:2003年夏
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