築城年 | 1580年台中頃 | 分類 | 平城 | |
別名 | 舞鶴城 |
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築城者 | 細川藤孝 |
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歴代城主 | 細川家 → 京極家 → 牧野家 |
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現在地 | ||||
京都府舞鶴市字南田辺15−22 |
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略歴 | ||||
・天正8年(1580年) 細川藤孝が丹後一国の国主となる |
<田辺城の沿革>
田辺城は天正8年(1580年)に丹後の国主となった細川藤孝が築きました。いつ完成したのかは定かではありませんが、天正年間には完成していた、と推定されているそうです。田辺城は本丸(現在の舞鶴公園が相当)を中心に、二の丸、三の丸が取り囲む輪郭形式の平城でした。北は海に面し、南は湿地帯、東西には川が流れており、これらを天然の外堀として利用していたそうです。
田辺城は、慶長5年(1600年)の関が原の戦いで、戦火に襲われました。石田三成に味方する西軍およそ1万5千の軍勢が、田辺城を攻めてきたのです。その頃、藤孝の嫡男・忠興は細川家の主力を率いて家康に従っていたため、藤孝のもとには500人ほどの兵しか残っていませんでした。藤孝は、宮津城・峰山城に火をかけ、守りの固い田辺城に籠城。50余日に及ぶ籠城戦が始まりました。
この戦いは、朝廷から勅使が派遣され、両軍に和議を命じるという形で終結しました。その理由は、藤孝が古今和歌集の秘事口伝の伝承者であったためです。藤孝が討死することは、つまり歌道の奥義が廃絶すること。これを恐れた後陽成天皇は、勅使を派遣して藤孝に開城することを求めますが、藤孝は開城を拒否します。そして、古今伝授の秘伝書と
「いにしへも 今もかはらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉」
の一首を記して、勅使に渡したのでありました。その古今伝授の場所が、舞鶴公園の「心種園碑」の石碑が立っているあたり、と伝えられています。
その後、田辺城は京極家の手を経て、譜代大名の牧野家の居城となりました。彰古館には、牧野家所用の甲冑などが常設展示されております。
<田辺城の写真>
・細川幽斎像(彰古館の中)
・天守台石垣の一部(古式穴太積)
<彰古館開館情報>
・入館料:無料
・開館時間:午前9時〜午後5時
・休館日:月曜日(休日の場合は翌々日) 年末年始(12月29日〜1月3日) 祝日の翌日
・車:付近に無料駐車場あり。
・電車:最寄り駅は「西舞鶴」駅