築城年 | 不明 | 分類 | 山城? | |
築城者 | ?? | |||
別名 | 和仁城または和仁古城 | |||
歴代城主 | 和仁家 | |||
史跡指定 | 国指定史跡(平成14年3月19日指定) | |||
現在地 | ||||
熊本県玉名郡三加和町大字和仁字田中293−3 |
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略歴 | ||||
・暦応3年(1340年) 廣瀬文書に「鰐城」の名で登場 |
<田中城の沿革>
田中城は、戦国時代の肥後を分割統治していた国衆のひとつ、和仁(わに)氏の居城として利用されていました。築城年代などは不明ですが、「廣瀬文書」の暦応3年(1340年)の項に「鰐城」の名が登場しており、この「鰐城」が田中城に相当するのではないか、と考えられているそうです。そうなると、築城されたのは南北朝時代、あるいはそれ以前、ということになり、古くから城としての役割を果たしていた、と考えられます。
田中城がその名を全国に知らしめた事件が、天正15年(1587年)の肥後国衆一揆でした。この一揆は、豊臣秀吉が九州を平定した後、肥後の国主となった佐々成政(さっさ なりまさ)の統治に対し、肥後国衆が揃って叛旗を翻した戦でした。この反乱は、秀吉が派遣した鎮圧軍に敗れてしまいますが、国衆の最後の砦となったのがこの田中城でした。籠城したのは和仁氏とその親族の辺春(へばる)氏のおよそ900余りの兵で、1万ほどの秀吉軍と2ヶ月余りの籠城戦を繰り広げますが、最後は内応者が現れたために落城し一揆は鎮圧された、と伝えられています。
この時の攻防戦の様子を表した資料に「辺春和仁仕寄陣取図(へばるわにしよりじんどりず)」があり、確認されている資料の中では、日本最古の城攻め絵図であるそうです。
<田中城の写真>
・和仁一族石像
中央が長男で和仁城主・和仁勘解由親実(わに かげゆ ちかざね)、右が三男の和仁弾正親範(わに だんじょう ちかのり)、左が四男の和仁人鬼親宗(わに じんき ちかむね)です。この戦いで、3兄弟は討死し、和仁家は歴史上から姿を消しました。
<管理人の感想>
最近、国史跡に指定されたためか、たいへんきれいに整備が進んでいました。石垣などはほとんどありませんが、城壁・堀・廓の遺構がわかりやすくきれいに残っています。本丸跡付近からは周囲の連峰を見ることもできるので、眺めもいいです。また来て見たい城ですね
(^-^)
<交通情報>
・車:石像の前に無料駐車場あり。