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闘鶏神社

時代区分源平合戦分類区分神社寺院旧国名紀伊
現在地和歌山県田辺市

関連人物

・弁慶

関連事件

紀伊の国は現在は和歌山県となっておりますが、和歌山でも南の方面は「南紀」と呼ばれ、中でも台風が迫るとニュースによく登場する潮岬、海水浴場で有名な白浜などが有名でしょうか。その白浜の近くに田辺という土地があります。田辺には、源平合戦の頃、瀬戸内水軍でも特に強い勢力を持っていた熊野水軍の本拠地がありました。また、観光面では源義経の家来として有名な武蔵坊弁慶の故郷であるとされています。田辺の街のあちこちには弁慶キャラクターが描かれていたりしておりました。

弁慶銅像

JR「紀伊田辺」駅を出てすぐの場所に弁慶の銅像が立っておりました。薙刀を構えた勇壮な姿です。
説明書きによると、この像は昭和46年9月に橘堅次郎氏の篤志で、高岡市の彫刻家・米治一氏に依頼して建てられたそうです。
そもそも、なぜ田辺が弁慶の故郷なのか?
それは、弁慶は熊野水軍をまとめる別当・湛増(たんぞう)の息子であるからなのです。


闘鶏神社

闘鶏神社は、熊野別当18代 湛快(たんかい)の時に熊野権現三山を勧請したと言われております。昔、熊野詣に訪れた旅人達がここに参拝し、熊野三山に拝礼して熊野詣をしたことにして引き返す人が多かったとか。和歌山から田辺まで来るだけでもけっこうな距離ですが、ここからさらに山道を越えて熊野まで行くのはかなりの時間と体力が必要とされ大変だったでしょう。そのため、「新熊野権現田辺の宮」などと呼ばれていたそうです。

弁慶・湛増像

この神社が「闘鶏神社」と呼ばれるのは、遠い昔源平合戦の時の出来事に由来しております。
当時、瀬戸内水軍のほぼ全てを傘下におさめていた平氏に対し、源氏は有力な水軍をほとんど持っておりませんでした。源義経が一の谷の逆落とし、さらに屋島奇襲で平氏の拠点を次々と落としても、平氏の本隊は海に逃げるために致命的な打撃を与えるには至りませんでした。平氏を打果すためには強力な水軍が必要と感じた義経は、当時最大規模を誇った熊野水軍を味方につけるために使者を派遣しました。その使者が弁慶だったといわれております。

弁慶は父である熊野別当・湛増を説得しました。湛増は源平合戦の行方を占うために白い鶏と赤い鶏を7羽ずつ用意して戦わせました。白い鶏が源氏(源氏の軍旗は白旗だったため)、赤い鶏を平氏(平氏の軍旗は赤旗)に見立てたのですが、7戦とも白い鶏が勝ったことで、源氏に味方することを決意したと言われております。
こうして、熊野水軍2000余人、兵船200余艘は源氏方として壇ノ浦に参戦し、平家を滅ぼしたのでありました。

闘鶏神社の事務所には、いくつか宝物が展示されております。湛増が使ったと言われる鉄烏帽子、鉄扇、弁慶の産湯を沸かした釜。そして拙者の目を惹いたのが義経の笛「白龍」。
なんでも江戸時代に藤原道紀という人物がこの神社に寄贈したそうです。笛が収められていた箱にはこう記されています。

此白龍横笛者源朝臣義経所有之器なり 故ありて我得之今當社に依有心願令寄附者なり
享和元年 効に候


<現代語訳>
この白龍横笛は源義経が所有していたものです。わけあって、私はこれを手に入れ、今当社(闘鶏神社)に願い事があるので寄附いたします

当時の神社の人は、この笛を鑑定(?)に出したようで、江戸時代・寛政12年(1800年)に申9月付けの証明書のようなものが残っておりました。その証明書よると、
この笛は義経が播州刀田山普賢院聖徳太子堂に寄附したもの
とされております。

<交通手段>
・JR紀勢本線(きのくに線)「紀伊田辺駅」より徒歩5分ほど
・神社前に有料駐車場あり


熊野水軍出陣の地

熊野水軍出陣碑

紀伊田辺駅からまっすぐ7,8分ほど歩くと田辺湾に出ます。海岸線の一部は公園になっており(現在拡張工事中)、この公園内に少し木に隠れるような形で左写真の「熊野水軍出陣の石碑」が立っておりました。
石碑によると、熊野水軍が壇ノ浦に向けて出発したのは、ここ田辺湾からで、昭和47年にこの石碑が建てられたそうです。

街のあちこちで見かけたキャラクター「弁慶君」
注意:拙者個人の中での名前です
弁慶君?

探検日:2003年8月10日
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