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臼杵城

築城年 1562年
分類 海城?
別名
築城者 大友宗麟、稲葉貞通・典通父子修築
歴代城主 大友家 → 福原直高 → 太田一吉
稲葉家
史跡指定

・県史跡(昭和41年3月22日指定)

現在地

大分県臼杵市大字臼杵字丹生嶋91
(旧国名:豊後)
<左写真:臼杵城入口
復元大門櫓(中央)と現存畳櫓(右)>

略歴

・永禄5年(1562年)  大友宗麟が築城
・天正14年(1586年) 島津家の攻撃により落城
・慶長5年(1600年)  稲葉貞通が5万石で入城
・明治10年(1877年) 西南戦争で落城

<臼杵城の沿革>
 臼杵城は永禄5年(1562年)大友宗麟によって、臼杵湾に突き出た丹生嶋(にゅうじま)に築かれました。これまで大友家は府内に屋敷を構えていましたが、臼杵城に居城が移されました。現在、丹生嶋の付近は埋め立てられて陸地になっていますが、当時は海の上に浮かぶ「海城」と呼ぶに相応しい、大友家の居城として、南蛮貿易をはじめとした商業活動栄えていたそうです。しかし、大友家は島津家との戦いに敗れ次第に劣勢となり、天正14年(1586年)、島津家の攻撃により落城しました。
 大友家が凋落した後、臼杵城は福原直高太田一吉と城主が変わりましたが、関が原の戦いの後、慶長5年(1600年)稲葉貞通が5万石で城主となります。この時に、臼杵城も近世城郭として修築を受けましたが、慶長5年(1600年)の時点で城内には31基の櫓に加え、三層四階の天守閣がそびえていたそうです。以後、明治維新まで稲葉家の居城として機能しました。  

・明治維新後の臼杵城
 明治維新後、臼杵城の建築物はほとんどが取り壊され、現存しているのは畳櫓、卯寅口門脇櫓の2基になっています。
明治10年(1877年)西南戦争の際は、臼杵の士族が「臼杵隊」を結成して西郷軍と戦いましたが、旧式の兵器しか持たなかった臼杵隊は敗れ、臼杵城は落城した、という歴史を歩んでいます。城内の一角に、臼杵隊として戦死した人々の顕彰碑が立っています。
 現代の臼杵城は、三の丸は市街地化しており、帯曲輪と二の丸、本丸が公園として整備されています。本丸跡からは、臼杵湾が一望できます。

<おすすめ見所>
畳櫓
 臼杵城に残る2基の現存櫓の1つ「畳櫓」です。畳櫓は、二の丸とその手前の帯曲輪の間に位置しています。下から見上げると、岸壁の上(当時は、海に直面していた自然の岸壁)に立っており、迫力ある構図になっています。

空堀遺構
 二の丸を歩いて行くと、やがて本丸に至ります。当時は門があったところです。二の丸と本丸を区切っているのが、こちらの空堀でした。大きくて深く、城の大きさがうかがい知れる遺構ですね。。



探検日:2007年12月22日
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