築城年 | 建武年間? | |
分類 | 山城 | |
別名 | ||
築城者 | 毛利時親?(築城) 毛利元就、輝元(修築) |
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歴代城主 | 毛利家 | |
史跡指定 | ・国指定史跡(指定) |
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現在地 |
広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山 |
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略歴 | ||
・建武年間?? 毛利時親が築城開始? |
<吉田郡山城の沿革>
吉田郡山城は、建武年間に地頭として勢力を伸ばしつつあった毛利時親が郡山に築いたと伝えられています。当初は山の南東部分だけを城郭にしていたそうです。戦国時代初期の毛利家は安芸の小さな国人領主であり、周防の大内家や出雲の尼子家といった強大な大名の傘下に組み込まれる小大名に過ぎませんでした。天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて尼子晴久の大軍に包囲されますが、時の当主・毛利元就はなんとかこれを撃退しました。これを機に城の拡大工事が始まり、標高390mの郡山全体が城郭化されました。山頂を本丸とし、二の丸、三の丸をはじめ、曲輪の数は大小合わせて270にもなり、西日本最大の中世山城となったそうです。
元就の跡を継いだ輝元は、豊臣秀吉の聚楽第などを目にして近世城郭に触発され、天正17年(1589年)から広島城の築城を開始。天正19年(1591年)に居城を広島城に移しました。
その後、慶長5年(1600年)の関が原の戦いで敗れた毛利家は安芸の国を没収されてしまい、吉田郡山城は廃城となりました。
<おすすめ見所>
・毛利元就墓所
元就の手によって郡山全体は城塞と化しました。近世城郭ではないので石垣は残っておりません、まさに中世山城の遺構となっております。現在では樹木が生い茂っていますが、あちこちにかつての曲輪の跡が残っています。こちらは、毛利輝元が元就の三回忌に建立した洞春寺の跡地で、現在は元就の墓が立っています。
・吉田歴史民俗資料館
郡山の南西麓に「吉田歴史民俗資料館」があります。吉田の町の通史を展示していますが、毛利元就と郡山合戦を中心に展示されています。吉田郡山城のミニチュアなども展示されているので、登城の前に見学しておくことをオススメします。