時代区分 | 源平合戦 | 分類区分 | 古戦場 | 旧国名 | 大和 |
現在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山 |
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<佐藤忠信の奮戦>
壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源義経でしたが、後白河法皇と兄の源頼朝の政治戦略の渦中の人となってしまい、兄である頼朝との対決という悲しい運命を歩むことになりました。文治元年(1185年)12月、義経一行は雪が降り積もる吉野に身を隠します。当時の吉野では、修験道の寺院がたいへん強い力を持っており、中央政界とはもちろん、大和国内の東大寺・興福寺とも異なる独自の勢力を保持していたそうです。しかし、吉野の僧兵達を味方につけることはできず、むしろ義経を捕らえて頼朝に差し出し、褒美をいただく、という空気を醸し出してしまいます。土地勘のない山中で、わずかの供しかいない義経主従に勝ち目は薄かったことでしょう。義経は身籠っていた愛妾の静御前を京都に帰し(しかし、静護衛につけた家来は金銀を奪って逃げたため、静は間もなく捕らえられてしまう)、密かに吉野脱出を試みるのでした。
さて、吉野山の僧兵ども。義経一行が逃走したことに気付き、大挙して追跡に出ます。この時、しんがりを買って出たのが奥州出陣以来の郎党・佐藤忠信(さとう ただのぶ)でした。
花矢倉付近からの眺め。 |
忠信が防戦したと伝えられている場所は「花矢倉」という名前で残っています。写真は割愛しますが、少し前に建てられたらしい矢倉みたいな建物があります。上の写真のように、たいへん眺めが良い場所で、桜の季節になると、それはそれは美しい景色になるそうです(^-^)。花矢倉の下は急な坂道になっており、どう見ても下から攻め登る方が不利な地形になっております。わずかな家来を率いて、決死の防戦に臨む忠信の胸中は、いかがなものだったのでしょう。
雪景色の吉野山は、故郷の奥州を思い起こさせたのでしょうか。
屋島で、義経を守って戦死した兄・嗣信の姿が目に浮かんだのでしょうか。
忠信は、地の利を活かして押し寄せる吉野の僧兵に矢の雨を浴びせ、矢の雨を突破したつわものには崖から突き落とし、必死に防ぎます。この戦いの最中、僧兵の中でも力自慢で知られた、妙覚院の横川覚範(よかわのかくはん)が名乗りを上げ、忠信に戦いを挑みました。この横川覚範なる僧兵は、例えるなら仲間の弁慶のようなものでしょうか。
この一騎打ちは、忠信に軍配が上がりました。覚範を討った忠信の武勇に僧兵は恐れをなし、その隙をついて忠信らは戦場を離脱するのでした。なお、花矢倉から坂を下ったところに、討死した覚範の首塚が静かにたたずんでおります。
一方、先に逃げた義経にも、しつこく追っ手が迫っていたそうです。さらに山を登ると、「義経の隠れ塔」と名付けられたお堂があります。
義経の隠れ塔。 |
逃げる義経は、このお堂の中に隠れ、さらに屋根を蹴破って追ってをまいた、と伝えられています。ちなみに、事務所に頼めばこのお堂の中に入れてくれるそうです。せっかくここまで来たので、中に入ってみようと思ったのですが、事務所が閉まっておりました(^_^;)
こうして、義経らは吉野を脱出することに成功しました。しかし、忠信は義経とは合流しませんでした。したくても、できなかったのかもしれません。義経らは、身分を隠して奥州に落ち延びて行きますが、忠信は京都に身を隠します。しかし、間もなく襲撃されて自害して果てるのでありました。
<交通情報など>
・ロープウェイ「吉野山」駅より徒歩1時間ほど(←かなり遠いのでお覚悟を)