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新田義貞の墓(称念寺)

創建 正応3年(1290年)
関連人物

新田義貞
<左写真は、新田義貞墓所の入口>

現在地

福井県坂井郡丸岡町長崎

<新田義貞の墓と称念寺>
 南北朝時代、足利尊氏が幕府を開いてまだ間もない頃、南朝の武将・新田義貞は北陸方面で戦っていました。しかし、1338年、越前国灯明寺畷の戦いで戦死しました。義貞の遺体が葬られたのが、ここ称念寺であると考えられています。
 称念寺は時宗の長崎道場と呼ばれ、室町時代には将軍家から寺領と安堵状が寄進されて、将軍家の祈祷所となり、さらに朝廷からも綸旨を受けて祈願所となり、たいへん栄えていたそうです。永禄5年(1562年)には、浪人中であった明智光秀が称念寺の門前に寺子屋を構えて生活していたそうです。江戸時代になっても、新田家は徳川家の先祖にあたる、という理由で幕府の保護を受けていましたが、明治維新によって寺領を没収され、廃寺寸前にまで追い込まれました。この窮状を救ったのは、新田義貞や称念寺の歴史を惜しむ人々でした。彼らの力により、称念寺は再建され、現在に至っております。

<交通情報・入園情報>
・車:駐車スペースはありません。

探検日:2005年3月14日
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