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暘谷城(日出城)

築城年 1594〜97年 分類 平城?
築城者 木下延俊
歴代城主 木下家
史跡指定 町史跡(昭和35年10月17日 指定)
現在地

大分県速見郡日出町
(旧国名:豊後)
<左写真:天守台>

略歴

・慶長6年(1601年)  木下延俊が築城
・明治7年(1874年)  天守閣はじめ、城内建物を破却し廃城処分

<暘谷城の沿革>
 「暘谷」は「ようこく」と読みます。変わった名前ですよね。知らないとなかなか読めません。築城当初は、地名の「日出(読みは「ひじ」これは知らないとまず読めない)」をとってそのまま「日出城」と呼ばれていましたが、3代藩主・木下俊長が中国の古書「淮南子(「えなんじ」)」にある
「日は暘谷から出て咸池に入る」
という言葉からとって命名した、と言われているそうです。一見すると意味がよくわかりませんが、よ〜〜く見てみると「日出」の「日」と「出」の間に「暘谷」という言葉が入っていますよね。原文で考えてみると、たぶん「日出暘谷自入咸池」みたいになるので、「日出」のすぐ近くに「暘谷」の語が来るのかもしれません。

 と、ちょっと変わった城名の由来から始まりましたが、この暘谷城も、ちょっとした謎を持ったお城だったそうです。その「ちょっとした謎」とはズバリ「豊臣秀頼の遺児・国松は、実は木下延俊に匿われていた。」というもの。秀頼の嫡男・国松は、大坂の夏の陣の後に捕らえられて斬首され、秀頼の男系は断絶された、とされております。
 そもそも、暘谷城を築いた木下延俊(きのした のぶとし)。彼は木下家定(きのした いえさだ)の三男であり、家定は豊臣秀吉の正室・北政所の兄であります。つまり、木下家は秀吉の正室の実家であるわけです。木下家は、秀吉との縁浅からぬ家柄でありました。しかし、秀吉が死去し、豊臣家の中心が秀頼とその母・淀の方に移ると、木下家は「先君の正室の実家」という間接的な位置づけになり、その立場は微妙なものになります。そんな背景を抱えた木下家は、1600年・関が原の戦いでは東軍に所属しました。その結果、父の家定には備中足守2万5000石が、そして延俊には豊後日出3万石が与えられました。延俊は、父よりも多い禄(5000石の差ですが)を受けたんですね。延俊は、別府湾を眺めることが出来る海岸沿いのこの地に、城を築きました。
 関が原の後も、延俊は徳川家康に従い、大坂の冬・夏の陣にも参陣しております。この延俊が死去する時、彼には二人の息子(兄:延治 弟:延次)がいましたが、兄の延治が家督を継ぎ、弟の延次には5000石を分与して新たに立石藩を立てたのです。5000石という石高では大名にはなれませんが、この立石木下藩5000石は「交替寄合:(大名ではないが、大名扱いとして参勤交代を行い、江戸城に詰める席も用意されている)」として幕府に名を連ねているわけです。ただでさえ少ない3万石の藩領を、わざわざ分藩する必要があったのか??その理由は、延次は実は秀頼の遺児・国松であり、豊臣家の滅亡を止められなかった木下延俊が、せめてもの償いの手段として国松に「藩」を持たせてやったのではないか?というのが、「木下延次=国松」説の根拠となっているそうです。この説を支持する事実は他にもいくつかあるそうですが、ここでは割愛。詳しくはこちらのサイト(豊前国新風土記)をご覧ください。

 話が「木下延次=国松」説に脱線してしまいましたが、「暘谷城」の話の続きを。3万石の小藩の城である暘谷城は、当然ながら小ぶりな城だったそうです。縄張りは、延俊の妻・加賀の方の父である細川忠興の手によるもの、と言われております。石垣のほとんどは野面積みで築かれ、本丸には三層の天守閣に6つの櫓を従えた姿であったそうです。暘谷城は、明治維新まで木下家の居城として機能しつづけました。明治7年、城内の建物は競売に出され、ほとんどが取り壊されましたが、一部の櫓が町内の仁王地区に移築されたそうです。

<おすすめ見所>
海岸線
 天守台の下の海岸線沿いに遊歩道が整備されておりました。別府湾の眺めが大変美しい、と評判されている暘谷城ですが、本当に綺麗です!!晴れた日の眺めは本当にいいですね(^-^)。この海岸は「城下(しろした)海岸」と呼ばれており、ここで獲れるカレイが「城下カレイ」と呼ばれて有名です。日出藩から幕府の献上物に必ず含まれるほどの美味だった、と言われております。この城下カレイ、今でも町内で食べることができるそうですよ。



探検日:2006年12月30日
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