現代日本の感覚では理解しがたいことですが、平安時代の東北地方は「陸奥」と呼ばれ、「日本」ではなくいわば「外国」に近いような感覚でとらえられていました。朝廷に従わず、独自の路線を進んでいた東北地方の部族は「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、辺境の野蛮な異民族として扱われていたわけです。陸奥・出羽の両国は、その他の国とはいくつかの点で支配制度が異なっていました。まず、国司の任期は通常4年でしたが、陸奥・出羽は5年まで認められていました。また、郡司の任命については、国司が候補者名を式部省に上げ、式部省で選考、決定するという流れでしたが、陸奥・出羽については国司が朝廷に上申するだけで任命されていました。税についても、他国よりも軽減されているなど、その他の国とは例外的な措置がとられていたわけです。その理由は、当時の東北地方には既に文明的な社会が存在しており、朝廷は東北地方を武力で倒すことで、支配者−被支配者の構造が形成せざるをえなかった、と考えられています。
9世紀初め、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍に任命され、蝦夷と激しい戦いを繰り広げたことが有名です。これにより、蝦夷の部族の多くは朝廷に降伏しましたが、降伏した後も彼らは「俘囚(ふしゅう)」という蔑称で呼ばれ続け、都の人々とは違う別の人間、とされていたわけです。この坂上田村麻呂の遠征からおよそ200年の間、陸奥は比較的平穏であったそうです。
この時代、陸奥における朝廷の出先機関は「多賀城(たがじょう)」でした。歴代の陸奥守は、この多賀城を拠点とし政務を行っていました。当時、多賀城よりも北方、現在の岩手県の辺りが、「俘囚」の勢力範囲であり、この辺りの俘囚の頭となっていたのが安倍頼良(あべのよりよし)です。頼良の父祖・忠頼は俘囚の長であり、頼良の父・忠良の頃からその勢力を伸ばし始め、頼良の時には「奥六群(おくろくぐん)」と呼ばれた胆沢(いさわ)郡、江刺(えさし)郡、和賀(わが)郡、稗貫(ひえぬき)郡、斯波(しば)郡、岩手郡の6つの郡司として君臨していました。その軍事力・経済力は、多賀城の陸奥守も及ばず、国司による徴税を拒み続けていた、と『陸奥話記』には記録されています。。頼良は、奥六郡内に柵(館)を築き、一族を配置して守りを固め、陸奥守ら朝廷役人の収奪に抵抗していました。さらに、伊具(いぐ)郡司の平永衡(たいらのながひら)、亘理(わたり)郡司の藤原経清(ふじわらのつねきよ)に娘を娶わせて娘婿とし、奥六郡以南にも勢力を伸ばしていました。安倍氏は「郡司」なので、朝廷の勢力に取り込まれているわけですが、実質的には「蝦夷」として朝廷の支配に太閤を続けていたわけです、つまり、蝦夷勢力は坂上田村麻呂の遠征以前の状況まで回復していたわけです。
安倍氏と陸奥守の戦いのきっかけは、永承5年(1050年)の「鬼切部(おにきりべ)」の戦いから始まります。当時の陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)は、秋田城介に任命された平重成(たいらのしげなり)に応援を依頼。重成は武勇の誉れ高い武士でありました。登任は重成の武力を背景に、奥六郡にも課税の手を伸ばそうとしました。また、重成も安倍氏を討伐することに成功すれば、さらに勇名を上げることができ、ライバルともいえる源氏に一歩先んじることが期待されます。この作戦は、朝廷が藤原登任に安倍氏の追討を命じたわけではなく、藤原登任と平重成の二人による私的な野望の戦いでした。安倍の娘婿である平永衡は、陸奥守を見限って安倍氏の一員として参戦しています(同じく娘婿の藤原経清は陸奥守に従った)。しかし、重成を先鋒とした軍は、鬼切部(現在の宮城県鳴子町)で安倍氏の強襲に遭い、多数の死者を出し、大敗北を喫しました。
この戦いの結果、永承6年(1051年)、朝廷は藤原登任に代えて、源頼義(みなもとのよりよし:64歳)を陸奥守に任命しました。頼義は平忠常の乱平定に活躍した源頼信の子で、相模守、常陸守などを歴任し、坂東に勇名を馳せていました。しかし朝廷は、頼義を陸奥守に任命したものの、安倍氏追討令は出していません。頼義が武力で安倍氏を倒すことはさせず、頼義の勇名を利用し、安倍氏を押さえ込む作戦に出たわけです。
実際、源頼義が多賀城に着任した永承7年(1052年)5月、上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)の病平癒を願う大赦が出されました。この大赦により、安倍頼良が国府軍を撃退した罪も免罪となったわけです。寝返った平永衡も赦されました。朝廷の狙いどおりに事が運んだわけですが、源頼義から見れば、源氏の名を上げるせっかくのチャンスを台無しにされてしまった形になります。一方の安倍頼良は喜んで源頼義に臣従を誓いました。また、「頼良」と「頼義」では名前が同音であるため、これを憚って安倍頼時(あべのよりとき)と改名しました。安倍氏が服従している状態では、源氏による武力討伐はできません。
天喜元年(1053年)、源頼義は鎮守府将軍に任命され、奥六郡を支配下に置き、前陸奥守の藤原登任が果たせなかった「奥六郡からの徴税」を成功させました。朝廷の狙いどおり、安倍氏は源頼義の勇名に屈服したわけです。そんなこんなで時は流れ、天喜3年(1055年)冬、ついに源頼義の陸奥守の任期切れが近づいてきました。源頼義は、鎮守府管内の視察のために数十日間、奥六郡に逗留していました。この時、安倍頼時は、平身低頭して源頼義を接待する他、陸奥の駿馬や金を献上し、郎党たちにも贈り物をするなど、徹底した饗応を行います。源頼義には、機嫌よく早々に都に帰ってもらいたい、という気持ちの表れ、と考えられています。ところが、戦乱の引き金はこの時にひかれました。
源頼義とその一行が任務を終え、安倍一族に見送られて帰路についた途上、阿久利河付近で野営していた多賀城官人の藤原光貞(ふじわらのみつさだ)の従者や馬が、何者かに殺傷される、という事件が起きました。源頼義は、光貞を呼んで容疑者の候補を尋ねたところ、名前が上がったのが安倍頼時の長男・安倍貞任(あべのさだとう)でした。光貞は
「先年、貞任が私の妹を嫁に欲しいと言ってきましたが、相手は卑しい俘囚なので断りました。貞任はこれを深く恥じ、怨んでいました。貞任の仕業に違いありません。」
と証言した、といいます。これを聞いて怒った源頼義は、貞任の身柄引き渡しを要求しますが、安倍頼時はこれを拒否。一族・近臣たちも頼時の決断を支持し、衣川の関を封鎖し、戦の準備を始めるのでありました。源頼義はこれをもって、安倍氏「謀叛」と朝廷に報告。天喜4年(1056年)8月に頼時追討令が発令され、源頼義は安倍氏に戦を仕掛ける大義名分を得ることに成功したわけです。こうして前九年の役の戦いの火蓋が切って落とされました。
(光貞の郎党襲撃事件は、源頼義が戦を起こすための自作自演の陰謀であった、と一般的に考えられています。安倍氏の徹底した服従ぶりに、戦を仕掛ける口実を作り損ねてきたため、陸奥守の任期が切れる間際に、戦を仕掛けるために言い掛かりをつけた、というわけです。戦を仕掛ける口実として、因縁をつけたり自作自演の事件を起こすことは、世界各国歴史でもよくあることです。)
<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・武士の成長と院政(講談社)
・史料による日本の歩み 中世編(吉川弘文館)『陸奥話記』
・「平泉 奥州藤原氏黄金の夢」 荒木新介著 (プレジデント社)
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