種子島に鉄砲伝来

 1543年(天文12年)8月25日。この日の前夜は、台風で大荒れだった一日が明けた朝、種子島の南端門倉崎に1隻の船が漂着していました。乗組員の服装は異様であり、言葉も通じません。乗組員の中の明国人・五峰ごほう)という者と砂で筆談した結果、この船がポルトガル船であることが判明しました。時の種子島領主・種子島時尭たねがしま ときたか:16歳)は、乗組員一行を引見。この時、乗組員のうち二人が所持していたのが、火縄銃でした。この火縄銃の発射を見た時尭はたいへん感激し、この二挺を買い、一挺は根来寺の杉坊すぎのぼう)に与えたそうです。ちなみに、この一挺の行き先については、島津貴久を通じて室町将軍・足利義晴に渡り、義晴は近江国友の刀鍛冶に模造させた、という記録もあるようです。
 時尭は、残りの火縄銃の製造方法を家臣に研究させました。篠川小四郎は主君の命で火薬の調合方法を学び、模造品の製造に取り組んだのですが、銃の底をふさぐ方法がどうしてもわからなかったそうです。そこで、小四郎は刀工の八板金兵衛に命じてポルトガル人に学ばせ、1年後には数十挺の鉄砲を製造することに成功しました。これが、後に戦の戦術を一変させた新兵器、鉄砲の誕生だと伝えられています。この種子島銃をはじめ、和泉の堺、紀伊の根来、近江の国友などが有名な鉄砲の産地となり、足軽の鉄砲隊が編成されるなど、鉄砲が日本に与えた影響はたいへん大きなものでした。

 ちなみに、この漂着船に乗っていた通訳の五峰は、後に倭寇の頭領となって暴れまわる王直おうちょく)であると言われているそうです。
 さらにちなみに、中国式の鉄砲はこれよりも前に日本に伝わっていましたが、使い勝手が良くなかったのでしょうか、使用されることはほとんどなかったそうです。


<参考>
・日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・日本史史料集(駿台文庫)


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