日本にキリスト教が伝わったのは1549年(天文18年)7月3日、イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエル(44歳)が鹿児島に上陸したことから始まった、と伝えられています。イエズス会は耶蘇(やそ)会とも呼ばれ、カトリックの改革を目指して編成された団体であったそうです。当時のヨーロッパでは、ルターやカルヴァンといった人物らが、ローマ教皇を頂点とする教会体制に疑問を投げかけ、それに様々な政治的思惑が混ざり合い、宗教改革が展開されている真っ最中でした。そんな中、旧教であるカトリックの勢力挽回を図ることが、このイエズス会の目的でした。
来日したザビエル自身はスペインの貴族出身でしたが、戦で重傷を負ったために宗教家の道を歩み始め、1534年にイグナティウス=ロヨラらとパリでイエズス会を設立。ポルトガル国王の要請で、1542年からインドのゴアで布教活動を行っていました。1547年、殺人を犯して鹿児島から逃亡してきた日本人・ヤジローとマラッカでめぐり合い、日本のことを知ったことが今回の来日のきっかけとなったそうです。
ザビエルはヤジローを伴ってマラッカから直接鹿児島に入り、ヤジローの家族や知人達から歓待されたそうです。また、領主である島津貴久(しまづ たかひさ:36歳)とも接見し、キリスト教の布教を許可された、とザビエルの書簡にも記録されているそうです。しかし、布教のために仏教を激しく攻撃したために、貴久は布教を禁止。やむを得ず、ザビエルらはキリスト教の布教許可を求めて京都に向うこととなりました。
ちなみに、彼らが京都を目指したもう一つの理由は「貿易」でありました。当時、日本でも有数の商業都市であった堺は京都から近いため、ここにポルトガルの商館を開くことを狙っていたことが、インドのゴア総督宛のザビエルの書簡に記されております。このように、イエズス会の布教活動はカトリック教国であるポルトガルの商業活動、つまりインドのゴアや中国のマカオに代表されるような「植民地経営」と密接に結びついており、純粋に布教だけが狙いであったわけではないことがわかります。
(そもそも1494年にローマ教皇の承認のもと、ポルトガルとスペインで締結されたトルデシリャス条約や1529年のサラゴサ条約では、ポルトガルとスペインで世界を二分して支配することを決定し、他のヨーロッパ諸国が介入することは違法である、と制限しています。これはローマ教皇が認めていた条約であるわけですから、教皇の下部組織のイエズス会も当然、この政治思想を汲んでいるのでしょう。)
この後、多くの宣教師が来日します。彼らは、布教のみならず貧者の救済などの社会活動も行っていたため、短期間で信者の数は急増。九州の大名も貿易の利益があるために宣教師を保護し、大友宗麟のように自ら入信するキリシタン大名も現れました。
<参考>
・日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・日本史史料集(駿台文庫)
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