ザビエル、日本を去る

 1550年(天文19年)8月、イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエル(45歳)は、京都へ向う途中、平戸に寄港しました。当時の平戸は日明貿易、日朝貿易の重要な貿易港であり、これをきっかけにポルトガル船も来航するようになったそうです。平戸の領主・松浦隆信(22歳)に保護され布教を始め、1ヶ月余りの滞在中に100名ほどに洗礼を授けました。鹿児島に比べると、ザビエルの布教活動はたいへん実りのあるものだったと考えられます。しかし、彼の目的は、やはり「王都」である京都であるため、平戸は彼に同行していたスペイン人宣教師・トルレスに委ね、自らは京都を目指したのでありました。
 翌年1月、一行は京都に到着したのですが、あまりに荒廃し、力を失っている京都に失望。京都を諦め、平戸・山口・そして豊後で布教活動を続けました。山口では大内義隆(45歳)の保護を受け、豊後の府内にいたっては領主・大友宗麟(22歳)を入信させるなど、大きな成果を上げています。1551年(天文20年)10月24日、ザビエルは宗麟からインド総督宛の手紙を預かり、豊後からインドへ向けて出港。その後、中国での布教を志しましたが、中国に入国することはできず、病に倒れて1552年にこの世を去りました。


<参考>
・日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・日本史史料集(駿台文庫)



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