孝明天皇の長州征討令を受けた幕府は、西国諸藩に出兵命令を出した。その総兵力は15万人にも上ったという。幕府首脳部はこの機会に徹底的に長州藩を叩き潰そうと考えていたようだが、事態は意外な結末を迎えた。
幕府の動員令を受けた諸藩は、戦費の負担が大きいために戦意は低かった。幕府軍を率いる総督もなかなか決まらなかったのである。今回の駆け引きを担ったのは、幕府軍の参謀となった薩摩藩の西郷隆盛(38歳)であった。彼は自ら長州藩と交渉し、禁門の変の責任者を切腹させるなどの条件をつけて、長州藩の降伏を認めると12月27日には幕府軍は撤収を始めた。
こうして、第一次長州征討は戦火を交えることなく、外交交渉で終結したのである。
一時的に長州藩の尊攘派勢力は衰退したが、間もなく藩を動かすことになった。決起したのは吉田松陰の弟子で上士の高杉晋作である。
禁門の変勃発から2日後の7月21日、孝明天皇から長州追討令が下された。これを受けた幕府は24日(23日?)、西国諸藩に出兵を命じた。
しかし、幕府側に問題が発生した。征討軍をおこしたのはいいが、その軍をまとめる総督の選出に手間取ったのである。総督を依頼されたのは御三家の前尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ よしかつ:41歳)だったが、彼は武力討伐には消極的で再三固辞していたのである。彼は、自分に全権を委任することを条件にして、やっと征長軍の総督を引き受けた。参謀は、禁門の変で活躍した薩摩藩の西郷隆盛である。
9月3日、徳川慶勝は朝命を拝して入京。10月22日には大坂城で軍議が開かれ、11月18日に総攻撃を行うことを決定した。しかし、総攻撃が実行に移されることはないまま事態は終結に向かう。
11月3日。参謀の西郷隆盛は岩国にて岩国藩主の吉川経幹(きっかわ つねもと)と談判を行った。長州藩の降伏条件として
・益田右衛門介(32歳)、国司信濃(23歳)、福原越後(50歳)3家老の切腹。
・三条実美ら5卿の国外追放(後、大宰府に移されることに決定)
・山口城の破却
を提示して話をまとめた。
外交交渉は西郷の主導で進められたのである。幕府側の全権は総督の徳川慶勝に委ねられていたため、西郷は逐一幕府の指示と了解を仰ぐ必要もなく、ほぼ彼の思惑通りに交渉は進んだ。
こうして、切腹した3家老の首検分を終えると、12月27日に徳川慶勝は諸藩に撤兵を命令し、征討軍を解散して第一次長州征討は終結した。
長州藩は大きく分けて二つの派に分かれていた。一つは、朝廷と幕府に対して全面的に謝罪し、藩の存続を願う「純一恭順」を唱える保守派で、主に門閥上士層がこれに属した。もう一方は尊王攘夷派である。彼らは武装したまま恭順すると見せかけ、再起を図る「武備恭順」を唱えていた。武備恭順派は自らを「正義派」と自称し、純一恭順派を「俗論派」と呼んで、庄屋や農民層の支持を集めていたという。しかし、武備恭順派でイギリスから帰国していた井上聞多(30歳)が9月25日夜に純一恭順派に襲撃されて負傷。両派の仲介にあたっていた周布政之助(すふ まさのすけ)が自害。高杉晋作(26歳)も命を狙われ、他藩に亡命するという事件が重なっていたために純一恭順派が優勢であった。
こうした事態を経て、長州藩は純一恭順派が政権を握り、西郷の降伏条件を受け入れた。
尊王攘夷派公卿の中でも、若く過激な人物が中山忠光(なかやま ただみつ)であった。彼は血の気が多い人物で、公家ではなく戦国時代の侍として生まれた方が相応しいような男だった。宮中で同僚の公家を相手に相撲をとって相手の冠を壊すなどの暴力事件が多かったという。和宮降嫁に尽力した岩倉具視を暗殺しようとして、土佐勤皇党の武市半平太(たけち はんぺいた)に刺客となる部下を貸すように要請したりと、並の志士よりもずっと過激な思想を持っていた。文久3年(1863年)8月の天誅組の乱では首領に担ぎ出されたが、乱は鎮圧されて長州に亡命していた。
長州藩が降伏したことで三条実美らの国外追放が決まり、忠光は11月15日に豊浦郡田耕(たすき)の山中で暗殺された。享年20歳であった。
ちなみに、忠光の姉・慶子は明治天皇の母である。つまり、忠光は明治天皇の叔父にあたる人物であった。そのためこの一件は長い間、長州藩の歴史の禁句とされていたという。