再び幕府に対して牙をむきだした長州藩に対し、幕府は諸藩を動員して武力討伐に乗り出した。慶応2年(1866年)に勃発したこの戦いは、長州では四境戦争と呼ばれており、その名の通り、周防大島口、芸州口、石州口、小倉口の四方面から幕府諸藩連合軍が攻め込んできた。
戦端が開かれたのは周防大島口で、6月7日に幕府軍艦が大島を攻撃して占領した。幕府軍は大鑑6隻と輸送船で構成されていたが、長州藩の海軍力は小艦4隻で、そのうち2隻は風帆船で、他艦に曳航されないと戦闘に参加できないという状態であった。これに、坂本竜馬(32歳)らの亀山社中の船が1隻、援軍に駆けつけたのだが、この時はまだ廻航中で戦列に加わっていなかった。幕府軍と長州藩の戦力差は明らかであった。この状況で、長州軍の指揮を執った高杉晋作(28歳)は一計を案じた。奇襲である。6月12日、高杉は丙寅丸(へいいんまる:200t、砲4門)一隻で、停泊中の幕府軍艦に対して夜襲を敢行したのである。この夜襲で幕府軍は混乱状態に陥り、ついには同士討ちまで起こしてしまった。戦意が低下した幕府軍は15日には撤退し、周防大島口の戦いは長州藩の小利で幕を閉じたのである。
一方、芸州口では6月13日に幕府軍の主力が進攻してきたが、洋式新銃で近代武装した長州軍が善戦し、激戦が繰り広げられていた。
石州口では、長州藩参謀の大村益次郎(おおむら ますじろう:42歳)の巧みな近代戦術で幕府軍を打ち破り快進撃を続けた。益田城を陥落させ、大麻山の野戦陣地を攻略し、7月18日には浜田松平藩61000石の浜田城を陥落させ、石見をほぼ平定したのである。
関門海峡を挟んで両軍が対峙していた小倉口では、大島から戻ってきた高杉の指揮により、6月17日に長州藩が海上から門司を攻撃したことから戦いが始まった。小倉口でも激しい戦いが繰り広げられたが、幕府軍の指揮官であった小笠原長行(おがさわら ながみち)が奮わない戦況に見切りをつけて逃亡し、諸藩の軍も戦意を失って戦線離脱を始めた。小倉藩のみは最後まで抗戦を続けたが、8月1日には小倉城が陥落し、この方面でも長州藩が勝利をおさめたのである。
この戦いのさなか、大坂城にて14代将軍徳川家茂(21歳)が7月20日、若くして死去した。8月20日、家茂の喪が発せられ、一橋慶喜(30歳)が徳川宗家を相続することが発表され、翌21日には朝廷から征長休戦の勅書が発せられた。
慶喜は、自慢のフランス式歩兵部隊を自ら率いて「大討込」を行うと息巻いていたが結局中止となり、勝海舟(45歳)をして休戦交渉に当らせた。しかし、勝の交渉は慶喜の態度豹変により失敗に終わり、失脚してしまう。
9月19日、幕府軍は全戦線に撤兵命令を出した。
幕府が諸藩を動員しておきながら、一つの藩に過ぎない長州藩を倒せなかったこの戦いで、幕府の軍事的権威は失墜した。徳川幕府始まって以来、幕府が諸藩を抑えていた背景には「旗本八万騎」という言葉に代表される軍事力があったが、もはやその軍事力が失われていることが明らかになった。政治的権威を失い、今また軍事的権威をも失った幕府の命運は風前の灯火であった。