第二次長州征討出兵命令

<概要>

長州藩に不穏な動きあり。
一度は屈服した長州藩が、再び幕府に対して牙を剥きだした。これに対して幕府は、慶応元年(1865年)5月16日、将軍・徳川家茂(20歳)自ら大軍を率いて江戸を出発。閏5月22日に入洛して直ちに参内し、同25日に大坂城に入って本営とした。
幕府は藩主召喚命令を出したが、7月27日、長州藩は病気を理由にしてこれを拒絶。代理として支藩主を大坂に召喚する命令も拒絶した。長州藩の反意を確信した幕府は再征を決意し、9月16日に家茂は再度上洛し、同21日に朝廷に長州再征を上奏。朝廷もこれを容れて勅許を出した。幕府は親征(しんせい:将軍自らが遠征を行うこと)を高らかにうたったが、前回総督を務めた徳川慶勝(42歳)や薩摩藩など、有力大名の多くは反対した。しかし、11月7日には従軍する32藩に出兵命令が出たのである。
この時既に長州藩と接近していた薩摩藩は出兵を拒否した。


第二次長州征討の進攻路と割り振り

幕府は大軍を以って、芸州口(山陽道を安芸より)・石州口(山陰道を石見より)・小倉口(九州豊前より)・大島口(瀬戸内海より)・萩口(海路より)の5方向から長州藩に攻め込む方針を立て、各藩の部署を決定した。これを表にまとめると以下の通り。

芸州口 石州口 小倉口 大島口 萩口
広島藩
高田藩
明石藩
彦根藩
津山藩
福山藩
津和野藩
鳥取藩
浜田藩
松江藩
小倉藩
熊本藩
柳川藩
福岡藩
佐賀藩
伊予松山藩
宇和島藩
徳島藩
薩摩藩
久留米藩

他、越前福井藩は大坂へ
※実際には萩口からの進攻は行われず、4方向からの攻撃となった。

<参考>
・日本全史(講談社)
・幕末維新 新選組と新生日本の礎となった時代を読む (世界文化社)

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