六代将軍決定

<概要>

宝永元年(1704年)12月5日、五代将軍・徳川綱吉(59)は一門・譜代の大名を江戸城に招集し、世継ぎを甲府藩の徳川綱豊(43)を世継ぎとする旨を宣言した。綱豊は綱吉の異母兄・綱重の長男であり、綱吉から見ると甥にあたる。
綱吉には二人の子を産んだ側室・お伝の方はじめ、他の側室はもちろん、手つきとなった女は多数いたようだが、子宝には恵まれず、お伝の方が産んだ二子だけしか得られなかった。長男・徳松は、わずか数え年5歳で夭折。さらにこの年の4月・愛娘の鶴姫(紀伊徳川家・綱教の正室)は享年28歳でこの世を去ったのである。
綱豊は、綱吉の手から伝家の宝刀・亀甲貞宗(きっこうさだむね)の刀と来国光(らいくにみつ)の脇差を授けられた。

<その後の展開>

この日の夕刻、綱豊は正室と共に、将軍世子の住まいである西の丸に入った。7日には綱吉と共に三の丸にて桂昌院に挨拶し、9日には「家宣いえのぶ」の名を与えられた。こうして、六代将軍が決定したのである。
なお、綱豊が世子となったことで空席となった甲府藩主の座は、側用人で河越城主・柳沢吉保が加増転封となった。


もう一つの可能性

六代将軍は甥の綱豊と決定されたのだが、将軍を継ぐ候補は他にもいたであろう。まずは鶴姫が嫁いだ紀伊家の綱教である。また鶴姫が存命であれば、鶴姫が産んだ男子を養子として継がせることもできただろうが、鶴姫は子がなかった。そのため、綱吉に最も血縁が近いのが、甥の綱豊だったのである。

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