文久3年(1863年)8月18日。薩摩・会津藩主導による長州藩追放クーデターが起こった。
当時の京都では、尊王攘夷運動を進める長州藩と、それに協調する主に若手の過激派公卿は、天皇の命令と偽り「天誅」などと称して開国派の要人を襲うなど、治安はたいへん乱れていた。さらに、一部の過激派は天皇を大和(現在・奈良県)に移して新政府を樹立し、倒幕の旗を挙げることも画策されていた。
しかし、あまりに過激な尊王攘夷運動は孝明天皇(33歳)からも不興を買うことになり、長州藩と過激派公卿は京都から追放されることになったのである。
京都から尊王攘夷派がほぼ一掃されたことにより、大和で蜂起した天誅組、生野で蜂起した平野国臣(ひらの くにおみ)らの反乱は正統性を失って失敗した。尊王攘夷運動は一時衰退するが、幕末の動乱はこれからが本番である。
午前1時。
孝明天皇の承認を事前に得ていた薩摩藩と会津藩は協調して事を計画していた。
まず、中川宮朝彦親王(40歳)が参内。続いて京都守護職・会津藩主の松平容保(29歳)と、京都所司代・淀藩主の稲葉正邦(いなば まさくに:30歳)がそれぞれ藩兵を率いて御所に入り、御所の9つの門を閉ざして命令以外出入りを禁止した。
続いて、前関白の近衛忠煕(このえ ただひろ)、右大臣の二条斉敬(にじょう なりあき)、内大臣の徳大寺公純(とくだいじ きんいと)が召命で参内。薩摩藩は藩兵を率いて堺町御門(御所の南側の門)に集結して守りを固めた。堺町御門は、これまで長州藩が守っていた門である。
午前4時。
9つの門の警備完了を告げる号砲が鳴った。在京している諸藩が召命され
・過激派公卿20余名の参内・他行・面会の禁止
・長州藩の堺町御門警備罷免と退京
・天皇の大和行幸延期
など、次々と決定していった。
事態に気づいた長州藩と尊攘派公卿は関白の鷹司輔煕(たかつかさ すけひろ)邸に集結した。
午前10時。
鷹司関白が参内。朝議をひっくり返そうとしたが、結果は変わらなかった。
翌19日。
長州藩は三条実美(さんじょう さねとみ)ら7人の公卿を伴って国に引き上げた。