文永の役

 1274年(文永11年)10月3日、元軍はおよそ900隻もの軍船を率いて高麗の合浦(がっぽ)を出港しました。その兵力はおよそ3万。その内訳は、モンゴル人がおよそ2万人、高麗人がおよそ1万人ほどだったと言われております。
 2日後の10月5日、元軍はまず対馬を襲撃しました。当時、対馬の守護は少弐(しょうに)氏でしたが、実際に守っていたのは守護代の宗資国(そう すけくに)でした。資国は80騎ほどの武士を率いて果敢に戦いますが、相手は3万もの大軍。勝てるはずがありません。資国はじめ、武士たちは全滅。元に占領された対馬は、目を覆わんばかりの惨状を呈しました。対馬の男はほとんどが殺され、捕らえられた女たちは手のひらに穴を空けられ、その穴に綱を通して数珠繋ぎにされ、船べりに吊るされた、と伝えられています。元軍は、対馬で殺戮と略奪の限りを尽くしましたが、これは日本に限ったことではありません。中東や欧州の諸国でも、蒙古に占領地された土地では殺戮と略奪が普通のことのように行われていたそうです。
 さらに、10月14日、元軍は続いて壱岐を襲撃します。壱岐の守護も少弐氏でしたが、実際に守っていたのは守護代の平景隆(たいらのかげたか)でした。景隆は100騎余りの武士を率いて防戦しますが、やはり多勢に無勢。居城に追い詰められ、自刃して果てます。対馬と同様に壱岐でも、元軍は暴虐の限りを尽くしました。対馬、壱岐の2島を蹂躙した元軍はさらに進軍し、ついに博多に迫りました。一方、元軍襲来の報が入った日本では、ただちに迎撃の準備が進められ、九州の御家人を中心として1万人余りの兵を集め、博多沿岸で元軍を迎え撃つ態勢を整えました。

文永の役 博多の戦い 両軍戦力表

元軍

日本軍

兵数

モンゴル人 約2万
高麗人   約1万
計     約3万
軍船 およそ900隻

兵数

少弐氏
菊池氏
大友氏
九州御家人
幕府援軍 など
およそ1万

都元帥
(総司令官)

忻都(きんと)

総大将

少弐経資しょうに つねすけ:49歳)
太宰少弐、鎮西奉行

副将

劉復亨(りゅうふくこう)
金方慶(きんほうけい:高麗人将軍)

参戦武将

少弐景資しょうに かげすけ:29歳)
(経資弟、現場指揮官)
少弐資時しょうに すけとき:12歳)
(経資の子)
北条宗政ほうじょう むねまさ
(時頼弟、執権名代)
竹崎季長たけざき すえなが:29歳)
(肥後御家人)
白石通泰
(肥前御家人)

 1274年(文永11年)10月20日、ついに元軍の軍船は博多湾に侵入し、西の今津から百地原(ももちばる)にかけて上陸を開始しました。日本の武士団は迎撃に向かいますが、思わぬ苦戦を強いられたと伝えられています。その原因は、兵力差にもあった(日本軍の兵数は元軍の3分の1ほど)と思われますが、それ以外にも様々な要因がありました。日本の武士の戦の場合、一騎の騎馬武者(=御家人)は数人の家来を従者として率い、これが1個の戦闘単位になります。おおまかな戦術方針は上級指揮官に従いますが、戦場での細かい判断は基本的に御家人任せだったそうです。なので、部隊同士の横の連携力はあまり強くなく、組織だった行動は少なかったと考えられます。一方の元軍は複数の兵士を集めて、1個の部隊を編成し、部隊長がこれをまとめます。部隊長らはさらに上級の指揮官の指示に従って行動するという、組織だった戦闘行動をとりました。このように、個人(御家人)の武勇に任せる日本と、組織戦を行う元の戦闘方法の間には、大きな違いがありました。また、武士には戦場における一騎打ちの習慣があり、先駆けの功を競って単騎突入する傾向が強かったのですが、言葉も通じない元軍を相手にしても通用しなかったことでしょう。さらに、元軍は「てつはう」と呼ばれた炸裂弾のような兵器を使用し、元軍の弓の射程距離は日本軍の弓の射程距離よりも長いうえに毒矢を用いたとか、様々な点で日本軍よりも効率的に敵を倒す手段を持っていました。
(戦闘の詳細については、今も研究の途中にあるそうです。今後の研究成果が楽しみです。)
 博多湾沿岸にわたって繰り広げられた戦闘は、日本軍に不利なものでした。総大将の子、少弐資時は若年ながらも、戦始めの儀式である鏑矢(「かぶらや」:飛ばすと音が鳴る。儀式用の矢。)を放ちましたが、そんな習慣の無い元軍にわかるはずもなく、揃って大声で嘲笑したそうです。
(子供が玩具で戦ごっこをしているとでも思ったのでしょうか?)
「蒙古襲来絵詞」という合戦絵巻(よく教科書に部分掲載されている。)で活躍した竹崎季長の戦いぶりは鎌倉武士の典型として扱われます。当時、彼は所領を横領されてしまっており、訴訟の最中だったので十分な軍備を整えることができず、わずか5騎で博多の戦いに参陣しました。戦場に駆けつけると、目前に敵軍が待ち構えています。家来の一人は「(先駆けの)証人が来るまで待ってから、戦いましょう。」と言いましたが、季長は
「弓箭の道、さきをもって賞とす。ただ駆けよ!」
と叫んで突入しました。これに対して元軍は矢を浴びせかけ、旗指の家来は馬を射られて落馬し、季長自身も馬を射られ、自身も2,3の矢を受け危機に陥ります。その時、肥前の御家人白石通泰が100騎余りで駆けつけて援護し、季長を助けました。
 苦戦続きの戦いの中、少弐景資が元軍副将・劉復亨を射抜き、重傷を負わせるという武勲もありましたが、戦局は元軍に傾いていました。夕刻頃には沖の浜の本陣付近まで攻め込まれ、博多の街は炎上してしまいます。この兵火により、多くの武士の妻子たちが捕らえられ、人家は焼失しました。これ以上の防戦は不可能と判断した日本軍は、兵をまとめて太宰府近くの水城(みずき)まで退却しました。事実上、敗北と見ていいでしょう。一方の元軍は、制圧地域に野営することなく、船に引き上げました。そして翌日、博多湾に元軍の船は1隻しか残っておらず、ほとんどが姿を消していたのです。
 元寇は台風の力で撃退された、と一般には認識されています。2度目の弘安の役では、台風が元軍を襲ったことが明らかになっていますが、文永の役でも台風が襲ったのか否かについては、いろいろと議論されています。元寇を研究するうえで、よく史料となっている書物に「八幡愚童記」があります。この書物によると、「朝になると、元の軍船はいなかった。」と記しており、嵐については一言も記述されていないそうです。その一方で、高麗の歴史書には「嵐によって多くの船が沈没した」と記されているそうです。さて、嵐は本当に訪れたのでしょうか・・・??

<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)

<関連史跡>
・文永の役最初の戦場 「対馬」
・平景隆奮戦 「壱岐」
・日本軍の陣所となった 「筥崎宮」
・退却した城塞 「水城」

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