1862年(文久2年)7月。薩摩藩主父・島津久光(46歳)は勅使として大原重徳(おおはら しげとみ:62歳)を擁して藩兵を率いて江戸に下り、将軍が諸大名を率いて朝廷で国政を執ることの他、幕府の人事・参勤交代の緩和・軍制改革などを強く要求した。
幕府も容易に譲歩しようとしなかったが、結局はこの要求を飲んだのである。
この改革で将軍後見職に一橋慶喜(26歳)、政治総裁職に松平慶永(春嶽)(35歳)を任命し、慶喜と春嶽による政治体制が確立した。また新たに「京都守護職」という役職を設けて、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり:28歳)が任命された。
後に、新撰組はこの京都守護職の組織下に置かれて、京都の治安維持と討幕派の粛清に乗り出すことになる。
今回の改革の立役者となった島津久光は、目的を果たして帰国するのだが、その帰途でイギリス人を殺傷する生麦事件(なまむぎじけん)を起こし、幕末の動乱に拍車をかけることになる。
これは、外様大名が(正確には、久光は「大名」ではない。「大名の父」)軍事力と朝廷を背景に、幕政に介入するという異例の事態であった。幕府の威信低下をよく表しているできごとである。この改革の内容をもう少し見てみると、以下のようにまとめられる。
島津久光による幕政改革の要求(文久の改革)
政権担当者 |
幕府も、政権を握る最高人事については、特に一橋慶喜の登用についてはおおいに渋った。御三卿の当主とはいえ、慶喜はもともとは幕府衰退の元凶となった尊王攘夷論の本山・水戸藩の出身である。しかし、慶喜は雄藩や開明派の役人、尊王攘夷志士からも絶大な支持されており、列強に侵食されつつある日本を救える人物として期待されていたのである。
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